メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

わたしがあなたを好きな理由

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子どもの保育園の話。

 

長女の6年間にわたる保育園生活が終わった。

最後の連絡帳には先生からのこんなコメントが書いてあった。

●●ちゃんの笑い声にたくさんパワーをもらいました。

●●ちゃんの頑張る姿もふくれっつらも笑顔も全部●●ちゃんで大好きです。

 

 

星の王子さまの「砂漠が美しいのは、どこかに井戸をかくしているからだよ」という有名な一節がある。

 

 

学生時代に好みのタイプは?なんてよく聞かれることがあった。

その度に頭の中にある好みの女性の顔やこうだったらいいなと言う理想の性格なんかを返したのだけれども。

そこにはなんともいえない、しっくりいかない感があった。

理想を寄せ集めてつくった理想像にはなんだかリアリティがなくて、本当にそんな人と出会っても恋に落ちないんじゃないかという思いがあったのだ。

 

事実、僕が好きになってきた人たちの外見のタイプはバラバラなんだけれども。

でも何事にも一生懸命やよく笑うなんていう共通点があった。

僕はそれが彼女たちの中にある僕にとっての井戸なんだと考えていた。

 

 

でも今の妻と付き合い、結婚し、子どもを育てていく中でちょっと違うのかもしれないと思うようになった。

 

砂漠が美しいのはどこかに井戸があるからかもしれないけれど、仮に井戸がなくたって砂漠には素敵なところがたくさんある。

それに砂漠の困ったところなんて数えたらキリがないかもしれない。でもやっぱり僕は砂漠に惹かれるんだ。

みたいな感じ。

 

 

僕の働く職場では愛着の課題を抱えた子たちもいる。

「その子の全てを丸ごと受け止めてあげましょう」

そんな言葉を耳にするけれど、そんなに簡単なことではない。

僕自身、何人を丸ごと受け止め、受け入れることができてきたのだろうか。

 

でも冒頭にあった保育園の先生からのメッセージからは、うちの娘が文字通り丸ごと受け止め、愛されてきたのだということがにじみでていた。

 

娘は幸せだなぁ。

素敵な先生方に巡り逢えて幸運を噛みしめる。

 

僕もわが家の子どもたちにそんな風に接しないとと、時折感情的になってしまう自分を振り返る。

それと同時に仕事で関わるたくさんの子どもたちに先生と同じように関わりたいなという思いが湧いてくる。

 

いただいたたくさんのものを次の誰かに繋いでいくために。

僕だけではない。

うちの娘たちもいただいたものを糧にし、また次の誰かに紡いでいくのだ。

 

教育の目的って知ってます?

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本の感想。

 

『「けテぶれ」授業革命!(葛原祥太)』という本を読んだ。

以前読んだ『「けテぶれ」宿題革命!(葛原祥太)』の姉妹本とでもいうべき本だ。

前作を読んで、僕自身もその学び方のシステムに共感し、授業の中でけテぶれの要素を取り入れたり、職場で本を紹介したりした。

 

 

けテぶれとは、いわゆるPDCAサイクル(Plan(計画)、Do(実行)、Check(測定・評価)、Action(対策・改善)の仮説・検証型プロセス)を子どもたちにわかりやすく落とし込んだものとでも言えばいいのだろうか。

 

け:計画

テ:テスト

ぶ:分析

れ:練習

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このけテぶれはただの方法論ではない。

例えば漢字テストに向けての自主学習時間や宿題などからスタートし、テスト勉強や授業中の学びといったコントローラを少しずつ子どもたちに手渡し、任せていくという過程だ。

 

 

この本の中にも度々登場するのが、タイトルにもある教育の目的だ。

もちろん教える人それぞれが目的や意図を持っているのだろうが、日本では法律として教育の目的は制定されている。

 

第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

教育基本法より)

 

「人格の完成」という言葉は、巷で言われるような「学校は勉強だけを教えればいい」知識だけがあればいいというイメージに当てはまらない。

 

生活に必要なスキルや方法、道具の使い方を身につけ、周囲の人との関係の中で自立する意思を持って行動できること

そのために自分自身を知り、自律、自分自身をコントロールできること

自ら課題を見つけて解決方法を考え、行動できること、自らの意思で選択して学び続けられること

 

そんな姿のイメージが僕には浮かんでくる。

 

そして、それは本の中にも描かれている子どもたちの姿と重なる。

それまで一方的に知識を受ける側、宿題など学ぶ内容や選択できる範囲を制限される側だった子どもたちが、けテぶれを通して自分で学ぶ自由の楽しさを知り、しばらくして自分で全て考え、選択し、結果を受け止めなければならない自由の大変さを知り、周りのサポートを得ながら徐々に自分を律して、学習者として自立していく。

それこそが僕たちが子どもたちに身につけてほしい自立した学習者として学んでいくための方法だと思う。

もちろんそこに至るまでは、大人も子どもも大変だ。

大変なのだけれども、とても大事で魅力的ななことだからこそ惹かれるのだろう。

 

 

最近は「何を学ぶのか」だけでなく、「なぜ学ぶのか」「学んだことが何に繋がるのか」を子どもたちに意識して伝える機会が増えてきた。

そんな自分の在り方を再認識し、まだまだ先があるんだよと教えてもらった本だった。

笑顔の力

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笑顔の話。

 

 

卒業式の練習をしているときに真剣な表情で練習に取り組んでいる子どもたち。

それはそれで素敵なんだけれど。

証書を受け取る係役で座り、緊張した面持ちで歩いてくる子どもたちに向けてとびきりの笑顔を送ってみる。

僕の顔を見て笑顔で答えてくれる子どもたち。

目と目が合えばお互いに笑みがこぼれる。

そんな場面を通して昔読んだ漫画を思い出した。

 

不思議な少年山下和美)』という漫画にある考古学者の話だ。

主人公…というか毎回トリックスター的な役割で登場するのが不思議な少年。過去現在未来の時空をこえ、場所を超え、自分自身の年齢や性別すらも自由自在に操り、ニンゲンを観察している。

この話で登場する幼い頃の考古学者は、厳格な軍人の父親の下で育つ。大好きな考古学の道へ進みたい、でも父親は絶対に許さない、だからどうしようもないと諦めていた。

そんな幼い頃の彼に不思議な少年は笑顔の力を授けるという。

「笑顔なんかあったって」と落ち込むのだが、いざ軍人の父親に対面し、笑顔で「考古学者になりたいと伝えるとあの父親が折れたのだ。

それからも子どものような無邪気な笑顔と共に彼は考古学者への道を進んでいく…というエピソードだ。

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この話を読んだのは大学生の頃。

当時はそんなに気にも留めていなかったが、教員として働き始め、苦しむ経験を通して、いつの間にか笑顔と「ありがとう」が僕の大きな武器になった。

 

善意や前向きな言葉ばかりかけられる訳ではないこの仕事。

傷つける言葉を出したり、人のせいにするのは簡単だ。

でもそんな言葉や態度に傷ついてきた自分はそうはしたくない。

そんな思いでなるべくポップに笑に変え、自分自身も笑顔を意識してきた。

 

「メガネ先生ってトトロみたいですよね。おっきな口を開けていつも笑ってるのがいいですよね」そんな言葉をかけられたことがある。

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正直とってもうれしかった。

笑顔には場の空気を柔らかくし、無理だと思う困難を「なんとかなるかも」と思わせてくれる力がある。

そして笑顔はどんどん広がっていく。

そんなすごい笑顔のパワー。

使わないともったいないよね!!

苦しいときこそ笑顔を忘れずに…まぁ忘れてしまうのだけれども。

これからも笑顔を大切にしたいなぁ。

 

目指せトレードマークがトトロの笑顔!

「知る」と「わかる」、「できる」と「やっている」

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考え方の違いの話。

 

 

教員という仕事柄、世間で「学校ではこんなことも教えていないのか」なんて言われることもある。

また僕たちの子どもへの評価に対して「もっとできているはずなんですけど」と保護者から言われることもある。

 

 

そういう時は大抵、考え方の違いからくるすれ違いが背景にあるのだ。

 

大人の方が上司から「言ったのになんでできていないんだ!」と叱られた経験は一度や二度ではないだろう。

そんなときに「仰るとおりです」よりは、「そんなこと言われたって…」とか「詳しく聞いてないし」とか「こんなふうになるなんて思っていなかったよ…」なんて思う方が多いだろう。

 

回転寿司の醤油差しをペロペロ舐めてはいけません。

なんてことをこちらが直接言ってはいなかったかもしれない。

けど、「公共のマナーやルールを守りましょう」とか「周りの人が嫌がることはしません」とかそれに類似することは山ほど言われてきたはずだ。

 

そして当たり前のことだが、一度や二度言われたからと言ってみんながみんなできるようになることはない。「知っている(聞いたことがある、学んだことがある)」と「できる」の間には大きな壁があるのだ。

 

もちろん学校やお家でできることが、いつでもどこでもできるのかというとそんなこともない。「できる」と「(いつでも当たり前のように)している」の間にも大きな壁がある。

 

だから(学校だけが全ての責任を負うのはちょっと違うと思うけれど)、「学校でこんなことも学んでいないのか?!」という批判には、「いや学びはしましたがまだできるには至っていません」と返すし、「家ではできているはずなのに!」という批判には「家では(もしかしたら強い圧やサポートがあるからかも?)できているかもしれませんが、(いろいろな理由で)学校ではできていません」返す。

 

 

「知る」と「わかる」、「できる」と「やっている」は全然違うのだ。

 

 

そして本当に「わかり」、毎日「している」になっていくために必要なのは本人の意思、本人が失敗した後悔わ頑張って成功した経験から学び、自分でやることを選択することが大事だ(もちろん続けていくための環境も大事で、続けようという意思をサポートしてくれる)。

 

 

そんなことを日々の子どもたちとの関わりの中で考えているのだが、最近大人に対してもそうなんじゃないかと思うようになってきた。

 

職場では教員全体の研修会などを企画する仕事を担っている。掲示やメルマガ、言葉で届く人もいれば、学ぶ気がそもそもない人もいる。

教育の世界も日進月歩。

学び続けないとすぐに浦島太郎になってしまう。でも学び続けなくても(表面上は)なんとかなってしまうのもこの世界だ。

そんな大人たちが知って終わりじゃなくて、やってみようと思ったり、できるようになってもらうためにはどうしたらいいのか?やりっぱなしで終わるのではなく、選択してもらうための工夫を考えないといけないんだなぁ。

「育ててくれてありがとう」という娘のことば

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保育園の卒園式の話。

 

長女の卒園式があった。

教員生活は14年目なので卒業式みたいな式典の運営側は体験してきたのだけれども、自分が保護者としてお祝いされるのはなんとも言えない変な感じだ。

 

式次第を見て『ね』の歌詞が載っているのを見て泣いてしまいそうな予感がする。

以前の発表会でも子どもたちが歌うのを聞いて涙してしまったのだ。

30人の子どもたちがつくりあげた劇 - メガネくんのブログ

 

子どもたちからは先生からのコメント後に自分の将来の夢を発表して、卒園証書を取りに行く。プロゲーマーとユーチューバーが多いのは時代のせいなのだろう。

どの子も0歳児や1歳児の頃から見知った仲で、日々のお迎えや参観などで関わってきた。

運動会や発表会を通してみんなの成長を見させてもらった。

 

そんな彼らが堂々と自分の夢を話す。

もちろん思いがあふれたり、タイミングが合わずになかなか伝えられない子もいるのだけれども、周りの子たちが「頑張って」「○○やで」と優しく応援している。経路がわからない子を呼び止めて「こっちやで」と伝えている。

 

そんな光景を見て胸の奥が暖かくなる。

この園で6年間を過ごせた娘は幸せだったなぁと思う。

 

うまくいえそうにもないけど
いまおなかのどまんなかに
たしかにあったかいものもってる
まっすぐにつたえたい

いろんなぐうぜんがかさなって
ここにこうしてあなたと
いっしょにいられることが
ただとてもうれしい

ラララ
ね おじいちゃんになっても
ね おばあちゃんになっても
ずっとずっといっしょに
あったかく つきあってたいね ね ね

うまくいかないときもあるけど
もういちどやってみたらできた!
まけるもんかがんばれ こどもたち
あしたははれるから
このおおきなあおいほしのうえで
こんなにちかくなれるなんて
おもいもしなかったから
ただ とてもうれしい

ラララ
ね おじいちゃんになっても
ね おばあちゃんになっても
ずっとずっといっしょに
あったかく つきあってたいね ね ね

そりゃいろんなヤツがいるけど
なんだかんだいってもきにいってる
ほんとはみんながしあわせに
なれたらいいのにね
ちきゅうはまわるわたしもすすむ
みんなちょっとちょっとずつかわってゆく
それでいいんだよ
いついつだって じぶんをしんじよう

ラララ
ね おじいちゃんになっても ね
おばあちゃんになっても
ずっとずっといっしょに
あったかく つきあってたいね ね ね

ラララ
ね おじいちゃんになっても ね
おばあちゃんになっても

ずっと ずっと いっしょに
あったかく つきあってたいね ね ね
ずっと ずっと いっしょに
あったかく つきあってたいね ね ね

『ね』

 

 

保育園の6年間、先生方にも周りの友だちにもとってもお世話になった。

娘と一緒に父母からも先生方へお手紙を書いた。

娘からの手紙には

いっぱいそだててくれてありがとう。

いつもはなしをきいてくれてありがとう。

だっこをしてくれてありがとう。

いつもなぐさめてくれてありがとう。

これからも弟と妹をよろしくお願いします。

そんな言葉が並んでいた。

 

 

「育ててくれてありがとう」

娘からもそんな言葉が出てくるなんて。

家だけでなく、本当に保育園にも育ててもらった。

親には言えないことも保育園の先生になら伝えることができた。

たくさんの経験をし、たくさんの種を植えてもらい、もういくつもの芽が出てきた。

この先、娘の芽吹きがすくすく育ち、花開いていくのが楽しみだ。

 

先生方、本当にありがとうございました。

あとほんの少し、よろしくお願いします。

続・2.0の人と0の人で成り立つ世界

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仕事の話。

 

以前書いたブログの続き。

2.0の人と0の人で成り立つ世界 - メガネくんのブログ

 

教員という世界について先輩からこんなことを言われたことがある。

「一般校は仕事量が1.5の人と0.5の人で成り立っている。そして支援学校は2.0の人と0の人で成り立っている」

 

こんな話を中心に3年を共に過ごした後輩たちと一緒の仕事をしたベテランの話をした。

みんなが苦しんだ愚痴で大いに盛り上がった。

 

ベテランと言えば自分が初任の時の研修で聞いた言葉を思い出す。

みなさんがこれから日々仕事に取り組み、子どもたちのことで悩み、考え、また勉強し自分を高めていき、20年が経つとベテランと呼ばれる立場になります。

一方、この先20年、自分からは特に何も学ばず、日々を乗り切り続け、特に成長しなくて20年が経ってもベテランも呼ばれるようになります。

みなさんはどちらのベテランになりたいですか?

「あなたたちはどちらのベテランになりますか?」 - メガネくんのブログ

 

 

愚痴の合間にそんな話をしていると後輩がこんなことを言う。

「メガネさん、違いますよ!ゼロどころじゃなくてマイナスですよ!」

「だって何話しても聞いてないし、説明したことを繰り返し質問されるし、振った仕事は終わらないから結局こっちがしないといけないし、できていないことを指摘したら面子を潰されたお気持ち表明の話や長文LINEが来るし…」

「明らかにマイナスですよ!」

 

そうだったのか…

通りでいつも以上にしんどかった訳だ。

自分では2.0の仕事をしているつもりだったのだけれども、2.5とか3.0の仕事量をこなしていたんだ。

 

例えるならピッコロが重いマントとターバンを身につけて戦闘している感じ。

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もしくは遊助が「開(アンテ)」と唱える前とか

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重力150倍でトレーニングしているベジータみたいな感じだったのか…

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そりゃしんどかった訳だ。

自分で思っている以上の負荷がかかっていたんだもの。

ベテランとの仕事を終えた後、劇的に心の体も軽くなったのはそういうことだったのか。

 

 

そう納得すると共に、この先も組んで仕事をする可能性があることに戦慄を感じる。

そう僕の働く支援学校はチームプレイか基本なので大人同士の関係性がとても重要なのだ。

来年度の人事に祈りを捧げたい。

 

 

そんなベテランは同じクラスの後輩に

「私たちが若い頃は先輩の背中を見て学んできたのよ!(意訳:私たちを敬え)」

「私たちは(学年の会議で意見が通らなかったり、批判されても)大人だから我慢しているのよ!(意訳:私たちの意見を尊重しなさい→ちなみに全然我慢できず忙しい後輩を捕まえてグチグチ言ってるし、会議では何を言っているのかよくわからない)」

「(ベテラン仲間のミスでトラブルが発生したことについて)私なら(トラブルの原因になったのがメガネのクラスなので)自分のクラスが原因だったらまずは謝るけれどね(意訳:私たちは悪くない、お前たちが悪いのだから謝れ→ちなみにベテランは「知らなかった」「わからない」を連発して基本的に謝らない、そう帝王サウザーのように)」

などとお気持ちを表明していたそうだ。

 

それに対して飲み会での後輩は「見て学ぶ背中なんてないんですよ!」と声を荒げていたが笑

 

 

他山の石ではないのだけれども。

 

自分は前者の先輩後輩いろんな人の声を聞いて、学び続けるベテランになるべく、ぼちぼち頑張っていこうと再確認した。

 

そんな反面教師の話。

なぜなのか 急に飛び出す 関西弁

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卒業式の話。

 

 

僕の勤務する支援学校では、卒業式の証書授与の際に担任が名前を呼ぶだけでなく、その生徒への短いメッセージを伝えるという伝統がある。

以前の学校では呼名だけであり、学校によって違うんだなぁくらいにしか思っていなかった。

そして今年はそんな呼名をする立場になった。

とはいえ、一番最初の練習からコメントを伝えるわけではない。最初は「3年間で成長しましたね」のような全員同じコメントを伝えておき、本番2回前くらいの練習から本番と同じ個別のコメントを読み上げるのだ。

 

 

ここで問題が生まれた。

 

 

大阪生まれ、大阪育ちだが、普段はそんなに関西弁が出ない自分。

なのに、なぜか初回のコメント読み上げのときにコテコテの関西弁になってしまったのだ。

緊張故なのか…

想いが入りすぎてしまうのか…

なぜか騒ぎ出す関西の血。

(いやいや、急になんでなねん!?)

その関西弁を同僚から指摘され、僕の緊張感はさらに高まる。

 

 

どうしたらいいんだ…

 

 

そんな時、ふと横浜在住の従姉との思い出が蘇る。

お昼ご飯なににする?という話の件で僕が「マクド⤵️とかどう?」と話すと、

「えっ今、マクド⤴️って言った?マクド⤴️って言った?ちょーウケるんだけど!関西のひとってほんとにマクド⤵️って言うんだー」

とイントネーションの違いをとことん馬鹿にされたのだ。

長い思い出…でもそこにヒントがあった。

 

 

「そうだ、イントネーションだ!」

 

と閃き、ちょっと声色を高めに意識してみたら普段通りに読むことができた笑。

ただ、読み上げている途中にふいに関西弁が出そうになる…

 

耐えろ、耐えるんだ…

 

そうしてなんとか乗り切った今日の練習後には、手に持っていた呼名のファイルの厚紙は溢れんばかりの僕の手汗で変色していた。

びちゃびちゃの呼名表を胸に、なんとか当日を関西弁なしで乗り切りたい。