モネの話。
先日モネ展に行ってきた。
昔からモネの睡蓮になぜか惹かれ、機会があればモネの描いた絵に会いに足を運んでいる。
たまたまなのだけれども、モネ展に行く日にラカンについての本を読んでいた。
まず忘れてはならないことは、人間のあらゆる体験において、ほとんど常に言葉が先行している、ということ。
入場待ちの列の中で顔をあげて周囲の音に耳を傾ける。
「麻薬で痛みを誤魔化して…」
「音楽家で言ったら誰の頃…」
「AKBで…」
「順番に案内いたします」
「自分でヘイト集める側なんやな…」
世界は言葉で溢れている。
そして子どもは言葉を手にすることで大事なものを失うことになるという。
要するに、言葉=象徴を手に入れるっていうのは、そういうことなんだ。そばにママがいないという現実に耐えるために、「ママの象徴」でガマンすること。「存在」を「言葉」に置き換えることは、安心につながると同時に、「存在」そのものが僕たちから決定的に隔てられてしまうことを意味している。僕たちはこの時から「存在そのもの」、すなわち「現実」に直接関わることを断念せざるを得なくなったんだ。僕たちは「現実」について言葉で語るからあるいはイメージすることでしか接近することができない。
……
こうして、「子ども」は「人間」になる。子どもは人間未満だったから、人間になってしまった僕たちは、言葉を手に入れるかわりに、子ども時代を永遠に失うことになる。
言葉を手にする代わりに失った大事なものはもう戻らない。
モネの絵を鑑賞する。
今回のモネ展は彼が印象派と呼ばれる以前の作品から、晩年の睡蓮などの連作まで、年代ごとに作品が並べられている。
原画を見ると細かな筆致がわかり、ディスプレイや紙面で見るのとはまた全然イメージが変わってくる。
何度も往復し、彼の作品を見ていると、なんとなく感じるもながある。
初期の頃の作品で背景でしかなかった空や空気、あるいは水が、時を経るにつれて彼の主題になっていったように感じる。
水は影を写し出す鏡や水色の背景ではなく、流れや揺らぎをもった水自体として描かれるようになっていく。
原画で見ると、モネその筆跡が目には見えないはずの空気や風の流れを感じたままにとらえようとしているのではないかとの思いが浮かんでくる。
白内障が進行し、見えなくなりつつあるはずなのに、目には見えないものを捉えて描こうとするモネ。
心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ
そんなことを考えていると星の王子さまで紹介されるうわばみのことを思い出す。
これは帽子だろうか。
それとも、うわばみに飲み込まれたゾウだろうか。
「帽子」という言葉で表されれば帽子以外の何者でもなくなる。
言葉を操る大人は誰しも帽子と見なすけれど、星の王子さまは見えないはずの中身のゾウを見抜くのだ。
そういえば星の王子さまも子どもだと気付く。
言葉について語るラカン
ラカンの言葉を借りるなら、僕たちは誰も現実を認識することはできないようだ。
リアル(現実)は実感できないが、リアリティ(現実らしさ)は実感できるという。
それに対して、 目に見えない、言葉にならないものを描きだそうとするモネ
モネが描こうとしたのはリアル(現実)なのか、それともリアリティ(現実っぽさ)なのか。
ただ僕には、見えないからこそ、言葉を操る僕たちでは存在を認識することもできない現実(ラカンでいうところの現実界)に気づき、見えにくい目故にそれを描いたんじゃないかなんて考えてしまう。
ラカンを知ったからこそ考えた、そんなモネねについての妄想の話。