本を読んで考えたこと。
『「個別最適な学び」と「協働的な学び」の一体的な充実を目指して(奈須 正裕/伏木 久始/大豆生田 啓友/加藤 幸次/佐野 亮子/松村 暢隆)』の中で紹介されていた言葉がある。
長野県の伊那小学校で、教職員で共有している言葉として紹介されていた。
ああでなければならない
こうでなければならないと
いろいろに思いをめぐらしながら子どもを見るとき
子どもは実に不完全なものであり
鍛えて一人前にしなければならないもののようである。
いろいろなとらわれを棄てて
柔らかな心で子どもをよく見るとき
そのしぐさのひとつひとつが実におもしろく
はじける生命のあかしとして目に映ってくる。
「生きたい,生きたい」と言い
「伸びたい,伸びたい」と全身で言いながら
子どもは今そこに未完の姿で完結している。
「未完の姿で完結している」
「未完の姿で完結している」
その言葉を知った後に、同時に読み進めていた『子どもとめぐることばの世界(萩原 広道)』という本で気づいたことがある。
子どもが言葉を覚えていく際には、大人との違いがたくさんある。
例えば名詞やオノマトペにたくさんの意味が含まれているというもの。
クックは「くつ」だけでなく、「くつをはく」という行為も含んだ意味なのだそうだ。それが、徐々に「くつ」と「はく」という別の言葉に分化していくのだという。
2歳になった娘の言葉の量の増加や使う言葉の分化を振り返ると「なるほど、確かにそうかもしれない」と納得する。
子どもの使う独特(のように大人からは思えてしまう)言葉には、子どもたちが言葉を獲得していくための背骨となる不可欠なものなのだ。
未完のように思われる子どもの姿が、実は言語を獲得していくために不可欠な試行錯誤を繰り返している段階なのだと気づかされる。
僕たち大人もかつては子どもだったはずだ。
ただ自分がかつて子どもだったことを大半の大人は忘れている。
もっと言えば子どもだったときの認知や感覚をそのまま覚えている大人はいないだろう。
だから大人たちは、ある意味当たり前なのだけれども、現在の自分の尺度で子どもたちの行動を評価してしまう。
その結果がこうだ。
「なんでできないんだ」
「また間違えてる」
「こうすればいいのに」
「ちゃんとしなさい」
「何度言ったらわかるの」
確かに「できる/できない」や「正解/不正解」という視点から判断すると子どもたちのやることは失敗や間違いになってしまうのかもしれない。
でも、この「未完の姿で完成している」という視点から見つめ直すと、経験を重ねている、試行錯誤の真っ只中そのものでしかないのだと気づく。
僕自身がそうなのだけれども、間違いや失敗は強く記憶に刻まれるようで、幼い頃の記憶は失敗や間違い、他人には言いたくない恥ずかしいものばかりが浮かんでくる。
けれどもそれらの失敗や間違い、恥という経験を繰り返し、そこから学んできた結果が今の自分なのだろう。
仕事柄、子どもたちに「なぜできないんだ」と叱責するより「どうしたらこの子はできるようになるのかな」と考えることが多い。
その積み重ねのお陰か、最近は我が子にも「本人が経験を通して気づき、学ぶため」と失敗しそうな場面であえてヘルプや助言をせず見守る、失敗させることもある。3人目で心の余裕が出てきたこともあるのだろうが。
完成系を追い求めないことで、子どもたちの行動の背景にある「なぜ」「どうして」がふと浮かんでくる。
それは子どもの時点で考えることを助けてくれる。
なにより未完の子どもたちを、「ああしろ、こうしろ」から離れ、ただただ眺めるとその面白さや不思議さに気づくことができる。
子どもの世界は奥が深いようだ。
そんなことを考えていると、39歳の自分も同じく未完の姿だなぁと思う。
未完ということは、変わっていく余地がある、つまり伸び代しかないということでもある。
そう考えると「できない」へのネガティブな感情は、「これから」へのワクワクに姿をかえる。
子どもたちの将来も、自分自身の将来もたくさんのワクワクが待っているはずだ。