メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

漁師が魚の釣り方を教えるように教員は…

f:id:megane_kun_ha107:20230226205241j:image

本の感想。

 

『同じ勉強をしていて、なぜ差がつくのか?「自分の頭で考える子」に変わる10のマジックワード』という本を読んだ。

 

 

まとめにあった本の流れはこうだ。

1  「同じ勉強をやっていて差がつく」のは、「日常から頭が動いているか、いないか」による

2  これが自動的にできるかどうかは、「頭脳の OSのスペックの差」による

3  「頭脳の OSのスペックの差」とは、「考える力の差」である

4  「考える力」は、第三者からのアプローチによってバージョンアップできる

5  第三者からのアプローチとしては、「 10のマジックワード」を投げかけるのが有効

つまり、

「10のマジックワードを投げかけることで、『自分の頭で考える力』を引き上げることが可能。それを日常で行ってしまおう」が本書の内容でした。

 

ちなみに10のマジックワードは以下の通りだ。

アプローチ 1【疑問を持たせる】のまとめ

<3つのマジックワード

「なぜだろう?」(原因分析力)

「どう思う?」 (自己表現力)

「どうしたらいい?」 (問題解決力)

 

アプローチ 2【まとめさせる】のまとめ

<2つのマジックワード

「要するに?」 (抽象化思考力)

「たとえば、どういうこと?」 (具体化思考力)

 

さらに OSを強化する【声かけ】のまとめ <5つのマジックワード

「楽しむには?」 (積極思考力)

「何のため?」(目的意識力)

「そもそも、どういうこと?」 (原点回帰力)

「もし ~どうする(どうなる)?」(仮説構築力)

「本当だろうか?」 (問題意識力)

 

 

この本を読んでいて、note記事で引用したりんごについてのイラストが浮かんできた。

f:id:megane_kun_ha107:20230226202714j:image

 

 

それと同時に教員という立場で、日々自分が子どもたちに伝えていることがそれでいいんだよと背中を押してもらえた気がして嬉しかった。

 

 

「考えなさい」「なんでできないの」

僕たち大人はそんな言葉を投げかけて、子どもたちに考えさせたつもりになって終わりになってしまうことが多い。

でも、それでは子どもたちの学びに繋がらない。

「考えられない」子どもたちだからこそ、「どうやって考えるのか」を示し、教え、伝え、導き、子どもたちが自分自身でできるようにならないといけない。

よく言われる「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」というのに近いのかな。

そのためには、考えることを僕たち教員が普段から実践しなければならない。

「自分を含めた大人はなにをヒントにどう判断して行動しているのか」を分析し、また適切ではない言動や思考をしてしまう子たちについて「なぜそうなってしまうのか」や「どうすれば本人が気付き、納得して言動を改めていけるのか」を繰り返し検討して、出てきたアイデアを試していくのだ。

 

そして学ぶことはイコール勉強することではない。日常の何もかもが学びに繋がるのだ。この本の中では、賢い子は勉強時間以外でもいろんなことに疑問を持ち、調べ、考え、得た知識を活用・応用し、また思考や知識を深めていく、脳内のOSをアップデートしていく様子が説明されていた。

 

そのためには学びを生活と結びつけたり、生活の疑問を学びに取り入れたりする工夫やそもそもいろんなことに疑問を持つこと、そんな学びを楽しんで行うことが大切だ。

そのために子どもたちにどう関わればいいのか、まず僕たち周りの大人が考えないといけないのだ。

 

 

うちの子どもたちは「なんでなん?」「わかった、◎◎やから○○なんや」とよく言う。妻に言わせると僕が「なんでそう思ったの?」といつも尋ねたり、「それは⚫︎⚫︎だからだよ」と口癖のように言ってからだそうだ。

そんな親の心を知らずに、うちの子どもたちは鉄腕DASHを見て鹿児島を知り、日本地図で鹿児島を調べ特産品のサツマイモを発見する。

楽しみに勝る学びのエンジンはない。

そんな風に楽しみながら、いろんなことを学び、その学びがネットワークのように繋がっていく、そんな瞬間を楽しめるようになってほしいなぁなどと陰ながら親は期待している.

 

 

 

30人の子どもたちがつくりあげた劇

f:id:megane_kun_ha107:20230205110648j:image

子どもの発表会の話。

 

先日、子どもの保育園の発表会があった。

年少・3歳児の息子(4)と年長・5歳児の娘(6)の合奏や歌、劇の発表。年長の娘にとっては園での最後の発表会だ。

 

随分前のブログで書いたが、ウチの保育園はすごい。

うちの娘のこども園の話「地味だけどすごい」 - メガネくんのブログ

 

 

年少・3歳児クラスからは先生主導で劇を始める。

劇の衣装や小道具、背景を子どもたちが一緒につくる。

年中・4歳児クラスからは子どもたちが劇を考える。

誰が何の役をしたいのか。

題材になる絵本にどんなアレンジを加えていくのか。

だからはじめから決まったセリフはない。

そして年長・5歳児クラスになると子どもたちが劇をつくりあげていく。

セリフや配役も考えるし、アレンジもする。

基本的には1人1役になる。

単に劇をするのではなく、魅せる、伝えるための劇を考えて、チームとして取り組んでいくのだ。

 

 

みんなでひとつの劇をつくりあげていく。

それは言葉でいうほど簡単なことではない。

みんなそれぞれの得意不得意がある。

間違ったり、失敗したりすることへ不安や恐怖がある。

大勢の前で発表する緊張がある。

お家の人に自分を見て欲しいという気持ちがある。

友だちの失敗を責めてしまう気持ちがある。

そんないろんな自分の気持ちを抑えながら、みんなのために手伝ったり、助け合ったり、練習を重ねて自信をつけたり。

そんなことを重ねていくのだ。

それは5歳児の子どもたちにとってとっても難しいことだ。

 

 

娘の発表会は0歳児の頃から見てきた。

最初は舞台上で固まっていた娘は、少しずつ前を向き、大きな声でセリフを言うようになった。

去年の4歳児クラスの頃には、題材の『きんいろあらし』を家でも読み込み、その情景や友だちの様子を細かく語ってくれるようになった。

今年は『こぞうのパウのたたかい』長編だ。

直前にインフルエンザが流行したこともあり、クラスのリーダー役といった立ち位置の娘は、複数の友だちの代役もしていた。

すごいプレッシャーだったと思う。

その中でもお客さんに魅せる聴かせることを子どもたちは意識していた。

舞台袖から舞台上の友だちを見守り、焦って舞台へ出そうになる友だちに「まだやで」と止めたり、太鼓のときには友だちへ伝えるべくリズムを声に出したり。

みんなのために自分のできることを懸命に頑張る姿が見られた。

 

 

それと同時に6年間見てきた娘の友だちからも目が離せなかった。

あの緊張で舞台に上がることができなかった子が、集団に入るのが苦手だった子が、恥ずかしさから舞台上でふざけていた子が。

みんな自信を持って堂々と笑顔で演技している。

自分の親を探してキョロキョロしていた子たちが、舞台袖から友だちを見ている。

セリフがなかなか出てこない友だちを怒るのではなく、「〇〇やで」とヒソヒソ声でサポートしている。

そんな姿を見て、涙が出てきた。

 

 

緊張でトイレが大混雑する子どもたちの幕間に、副園長先生がお話してくれた。

「魅せる、伝える劇を意識して欲しいことと伝えたこと」

「鍵盤ハーモニカや太鼓、劇などとても難しいことにチャレンジしていること」

「失敗しても大丈夫と伝えてきたこと」

「失敗してもチャレンジして頑張ってきたことを褒めてあげて欲しいこと」

「最初は太鼓のリズムもタイミングも合わなかったけれど、ペアとの呼吸を合わせたり、バチが当たらないように気を付けたりとお互いに協力する姿勢が見られるようになってきたこと」

「みんなでタイミングが合うのが『気持ちいい』と言うようになってきたこと」

 

 

そんな先生方の関わりや支援があって、初めて子どもたちはみんなでひとつの劇をつくりあげるところまで到達できたんだろうな。

ありがとうございます。

 

ひとりのちからじゃちっぽけかもしれないけど
みんなのちからをあわせれば元気になるよ

くよくよするなよ
あきらめるなよ
ここらがぼくらのふんばりどこさ

どっこいしょ

かんばれがんばれ
みんなのちから

がんばれがんばれ
みんなのちから

ひとりのちからじゃ
ちっぽけかもしれないけど
みなとわらえば笑顔が膨らんでいくよ

メソメソするなよ
なみだをふいて

ここらがぼくらのふんばりどこさ

どっこいしょ

がんばれがんばれ
みんなのちから

がんばれがんばれ
みんなのちから


ぼくらが歩くこの道は
良いことばかりじないけど

きみと歩く今日の道は
結構良いものさー

どっこいしょ

がんばれがんばれ
みんなのちから

がんばれがんばれ
みんなのちから

『みんなのちから』

 

 

最後に、発表を終えて教室へ戻った子ともたちの第一声は「楽しかったーっっ!!!!」だったそう。

この経験は子どもたちの宝物になったのだ。

あいさつ・がまん・思いやり

f:id:megane_kun_ha107:20230201124325j:image

仕事の話。

 

先日、支援学校の中学部へ高等部の先生に来てもらい話をしてもらう機会があった。

 

義務教育ではなくなること

卒業したら社会へ出て仕事をするために勉強する場であること

年齢に伴い心身が成長し、大人になる時期であること

自ら学ばなければ、いろんなことは身につかないまま大人になってしまうこと

 

そんな話をしていただいた。

 

 

そして、「高等部でできるようになってほしい3つのこと」としてあげられていたのが、タイトルにもある、あいさつ、がまん、思いやりだ。

 

 

「まずあいさつができるようになってほしい」

これはどの進路先でも言われることだ。

前の職場で進路開拓をしていたときも、実習の巡回や反省会に参加したときも繰り返し言われた。

あいさつなんて簡単じゃん…と誰もが思うかもしれない。

でも、本当にいつでもきちんとしたあいさつができているだろうか?

実は自分ではできているつもりでも、周りから見るとできていない…というのはよくある話である。

  • 「おはよう」だけでなく、「失礼します」や「ありがとうございました」もあいさつだ。
  • 自分から率先してあいさつしているか。
  • 相手を意識して、相手の顔を向いてあいさつしているか。
  • 相手に聞こえる適当な大きさの声か。
  • 明るい表情になっているか。
  • 家族にもあいさつできているか。
  • 実習先など初めての場でもあいさつできるのか。

こうやってチェックしてみると、どうだろう。

大人でもできていない部分があるかもしれない。

 

挨拶(あいさつ)とは、自分の心を 開くことで相手の心を開かせ、相手の心に近づいていく積極的な行為と言えます。 分かりやすく言うと、あいさつには、「あなたのことを認めています。 これから仲良くしていき ましょう。」 という意味が込められているのです。

なんて考え方もある。

あいさつは人との関わりの第一歩なのだ。

 

 

続いてがまん。

もちろんなんでもかんでも我慢しろという訳ではない。

我慢して溜まったイライラの対処、ストレス解消をすることも大切だ。

でも社会の中で生きていくということは、ルールを守らなければならないということだ。

ルールを守るためには自分のやりたいこと、やりたくないことを我慢しなければならない場面が必ず出てくる。

また仕事をしていく上では、人との関わりは避けては通れない。

みんながみんな好き放題中、自由にはできない。ある人の思いや考え、やりたいことというのは、別の人のそれと衝突するものだ。

もちろん最初から全てを我慢なんてできない。

でも「今、我慢しないといけない場面で我慢できていなかったな」と気づくことができたら、次からはできるかもしれない。少しずつ積み重ねていったら、君たちは変わっていける。そんな風に気付ける人になってください。というメッセージだった。

支援学校に通う子どもたちの多くは、メタ認知と言われる、自分で自分の様子や言動を客観的に認識することに不得手がある。感情をコントロールできない子たちの場合は、できていない自分を認めたくない思いからか、周りからの指摘を拒絶することもある。

でも、少しずつ関係をつくり、できることや得意なことから自分を受け止め、その子がわかるように丁寧に確認していくなら。

少しずついろんなことに気付けるようになっていく。中学部の間に、そうやって自分を受け止めて、変わっていきたいと子どもたちが思える素地をつくれるように関わっていきたいなと改めて思わされた。

 

最後に思いやり。

我慢の部分とも重なるのだけれども、仕事をする上で人との関わりは避けては通れない。

そのときに、相手への思いやりがあるのとないのとでは、周りの人との関係性が大きく違ってくる。

それに「仕事とはみんなの役に立つこと」である。家や学校、職場でお手伝いなどをして、みんなの役に立つことが、もっと大きく言えば世界のために役立つことが、仕事に繋がっていく。

 

 

子どもたちはそれを聞いて、「高等部へ行ったらこんなことを頑張りたい」とあれやこれやを口にしていた。

その様子を見ながら、僕たち大人にとっても「あいさつ・がまん・思いやり」は大事だやなぁとしみじみ思った。

きちんとしなければという呪縛を解くために

f:id:megane_kun_ha107:20220607221956j:image

入学式の話。

 

何も言わんでも ええねん

何もせんでも ええねん

笑い飛ばせば ええねん

好きにするのが ええねん

感じるだけで ええねん

気持ちよければ ええねん

それでええねん それで

(えー えー えー ええね)

 

ウルフルズ『ええねん』

 

勤務先で3度目の入学式。

支援学校にはさまざまな子どもたちが入学してくる。

延々と下足室を走り回っている子

座り込んで動きたくないと主張する子

小学部の教室についつい入ってしまう子

周りの子が気になって関わりにいく子

大きな音が苦手な子

大勢の中に入るのが嫌な子

などなど

 

僕はそんな子たちをにこやかに眺める。

いつの間にか多くの子が全然違う様子に変化するのを見てきたし、相手はナマモノ、生きた人間なのだ。

全てをこちらの思い通りにしようというのが烏滸がましいのだし。

 

 

でも子どものそんな姿を受け入れられない方もいる。

 

子どもは親から大きな影響を受けるのかもしれないけれど、親からは独立した一人の個人だ。

でも子の不出来は親の責任と考えてしまうこともあるのだろうが、その子のことはその子のことだ。

なんとなくのイメージで申し訳ないのだが、真面目な保護者の方ほどそういう傾向が強いのかもしれない。

走り回る我が子を叱りつける父親。

 

そんな光景を見ると、「きちんとしなければ」という僕たちの社会にかけられた強い呪縛を思う。

 

きちんとできる方がいいのかもしれないけれど…それにはすごいエネルギーがいる。

そもそもきちんとの定義なんて、時代や場所で大きく変わる。

 

まずはその子の現在地を、ありのままを受け止めて「ええんやで」と言ってあげることの方が大事なんじゃないのかな。

少なくともきちんとするために、叱りつけて脅してさせるのは違うよねなんて思ったり。

 

こんなことを言いつつ、僕も我が子には仕事で接する子たちと同じように関われないことがあるのだけれども。

 

 

願わくば「きちんとしなければならない」呪縛を解きたい。

 

世の中無理なことは無理だし、責任感から自分や子どものせいにしてしまうのではなく、「もう無理、誰か助けて!!!」と言ってくれるくらいでいいのだと。

千里の道も一歩から。

ぼちぼち一緒にやっていきましょう。

そう伝えたいと思ってしまうのだ。

増やせ!コマンド

f:id:megane_kun_ha107:20220602193836j:image

僕が出会った子どもたちの話

 

 

今うちには0歳児の娘がいる。

当たり前だけれど赤ちゃんにはなにかを伝えるために「泣く」というコマンドしか備わっていない。

うちはもう3人目なので、泣き方の感じで「オムツかな?」「おっぱいかな」「とりあえず眠くて泣いてるだけやから様子見だな」なんて区別がつくようになってきた。

DNAが同じ双子であっても、周りのちょっとした反応に応じて「生き残るため」に生存本能がその環境にとって適切と思われる行動を選択する。それが積もり積もって「個性」とか「性格」とかいうものが生まれるのだという。

その子が生き抜いていくための「コマンド」を身につけ、磨いていくのだ。

コマンドは、対応とか、選択肢とか、引き出しとかいろんな言い方がある。

僕たちは、みんなそれぞれの「コマンド」を持っているし、よく使うコマンドも、苦手なコマンドもある。

 

 

 

支援学校で働く僕はいろんな子どもたちに出会ってきた。

 

ある子は、しんどいときや嫌なときに「怒る」というコマンドを使う。

怒れば、周りが対応してくれるのだから、その子にとってはかなり汎用性の高いコマンドだ。でも周りはなかなか大変だ。特に身体が大きくなると。「怒る」を多用する大人もいる。美しいバラにはトゲがあるように、「怒る」で自分の要求を通す人は、見えない何かを失っているかもしれない。

 

ある子は、周りの友だちや大人に「イタズラする」というコマンドを使う。

小さい頃はイタズラに周りが反応してくれて楽しかったのだろう。その子は「イタズラ」以外のコマンドがなく、周りが好意的に反応してくれなくなって、嫌がられたり、叱られたりするようになっても、周りから関心を引くために「イタズラ」というコマンドを使い続けるしかなかった。

 

ある子は、注意やお説教の雰囲気を感じると「逃げる」というコマンドを使う。「とりあえずゴメンナサイ」というコマンドと連携技を組むこともある。でもすべての物事から逃げられる訳ではないし、ある意味では苦手なことや課題と向きあう機会を逃していることになる。

 

「座り込んで動かない」というコマンドもある。徹底抗戦の意思表示だが、それだけで自分の願い全てが叶うわけではない。でも、そうする背景には、かつて「座り込んで動かない」ことによってなにかメリットを得たことがあるのだろうと推測できる。

 

周りの注目を集めるために「叫ぶ」というコマンドもある(こう書くとFFTのラムザを思い出してしまう)。こちらが反応せずにいると、より注目を得るために「大声で叫ぶ」に強化されるが、ここがこちらの勝負所だ。僕の「流す」コマンドとの駆け引きが繰り広げられる。

 

僕もよく多様するのだけれど「頑張る」というコマンドは実は諸刃の剣でもある。「頑張る」ためには気力や体力や時間なんかを消費したり、犠牲にしているので、エネルギー残量を超えては使えない。それに世の中には「頑張る」ではどうしようもないことがたくさんあって、そんなときは「逃げる」とか「諦める」とか「愚痴ってストレス解消」とか他のコマンドが使えないと困ったことになってしまう。

 

僕もそうだが、誰しもに得意な/苦手なコマンドがある。

彼らの多くはコマンドを状況に応じて使い分けるのが苦手だ。というか他のコマンドの存在を知らない場合もある。

 

 

村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の新イルカホテルの黒服の男は笑顔を使い分ける。

見るからにホテル・ビジネスのプロという雰囲気の男だった。こういう人物には前にもなんとか仕事で会ったことがある。彼らは奇妙な人々である。彼らは大体いつも笑み.浮かべているのだが、状況に応じて笑顔を二十五種類くらい使いわけられるのだ。丁重な冷笑から、適度に抑制された満足の笑みまで。その笑顔のぐらでーには全部番号が振ってある。ナンバー1からナンバー25まで。そういうのを、彼らは状況に応じてゴルフ・クラブを選ぶみたいに使いわける。そういうタイプの男だった。

 

そこまでコマンドのバリエーションを増やさなくてもいいけれど、ある程度コマンドの選択肢があった方がお互いに楽になる。

野生の世界では腕力で捩じ伏せればいいのかもしれないが、あいにく人間社会には独特の慣習とルールがある。

それに沿って生きていくためには、代替手段と言われる新たな「コマンド」を増やしていかないといけない。

 

例えば、気になる女の子のスカートをめくるのではなく、会話の量を増やして、デートに誘うように。

例えば、算数の問題がわからないから教室を飛び出して逃げるのではなく、「わかりません」と伝えて先生に解説してもらうように(これには「わからない」と言ってもいい雰囲気が大切なのだが)。

 

残念だが、僕たちはアラブの石油王ではないので「札束で解決する」というチート級のコマンドは使えない。それにお金で買えないものもあるし。

そう、万能でとんな場面でも使える「コマンド」はないのだ。

だから、いくつかのコマンドを習得して、場面に応じて使いわけなければならない。

ものまね士ゴコを目指して。

今日も今日とて「コマンド」を増やし、磨きをかけていくのだ。

いつそんなことをやってるんですか?

f:id:megane_kun_ha107:20220602163418j:image

 

仕事の話。

先日、職場の教科会で、転勤してからの期間で自分がつくってきた教材を紹介する場があった。

そんなことをしているのには個人的な思いがある。

  • これからはいろんなものをシェアする時代だし(職場に限らず広く公開してもいいんじゃないかと思う)
  • 車輪を一から発明するのは無駄が多いと思うし(そう思いつつこだわりの車輪を作ってしまうのが自分なのだが笑)
  • いろんな意見が改善につながるし
  • 職場の皆さんの働き方改革にもなるし
  • 頑張ったことを褒めて貰えるし笑

などなど

 

おおむね好意的な意見をいただいた中で言われたのがタイトルにある「いつそんなことをやってるんですか?」である。

 

「空き時間です」と返答したが…その真意はなかなか伝わらない。

 

最近はニューベイビーのお風呂もあり、早く帰らざるを得ない。

必然仕事の時間は限られる。

 

仕事が好きで好きでたまらない、3度の飯よりも仕事が好きなワーカーホリックではないが、致し方なく持ち帰る仕事もある。

最近はGoogleドライブで職場のパソコンとデータを共有できるので活用している。

 

でもなるべく持ち帰りたくはないから、空き時間を逆算して、学校にいる間にしかできない仕事と、家に持ち帰ってもできる仕事を分けているのだ。

 

そして隙間の時間を探す。

時間泥棒に盗まれてしまった時間を、モモのように取り戻すことはできないが。

盗まれる前に見つけた隙間時間は活用できる。

後回しの魔女に見つかる前に、先に先にこなしていくのだ。

例えば、子どもたちが授業の振り返りをノートに書いている間の5分間。

朝の職員連絡までの10分間。

それ以外にも「手が空いたときにできる仕事」をストックしておく。

 

「考えろマクガイバー

(『魔王(伊坂幸太郎)』)

 

そう考えれば隙間時間は無数に見つかるのだ!

読書しながらスマホゲームで遊べば一石二鳥だしね!笑

 

 

 

でもそんなことばっかり考えてたら疲れるけどね!

抜くときは抜かないとやってられないけどね!

こないだうちの校長が言ってた「お金は金額ではなく使い方です」って内容を思い出してちょっと嫌になったけどね!

 

あぁ快適環境な精神と時の部屋が欲しいなぁ。

僕たちがつけている見えない色眼鏡を外すために『ジェンダーと脳』

f:id:megane_kun_ha107:20220521092713j:image

本の感想。

 

ジェンダーと脳ーー性別を超える脳の多様性(ダフナ・ジョエル/ルバ・ヴィハンスキ)』という本を読んだ。

 

要約すると、一般的に言われている男脳/女脳というものはない。性器による外観的な違いはあるし、相対的・平均的な男性的な傾向、女性的な傾向はある。だがある日突然クリトリスがペニスに変わらないのとは違い、脳は女性的な働きが男性的な働きに変わることもあるというのだ。そして全てが男性的な、あるいは女性的な脳の持ち主など存在せず、全ての人の脳は男性的な特徴と女性的な特徴が入り混じったモザイク状のものだというのだ。

 

ヒトの脳は女性的でも男性的でもないと結論づけることができる。それは女性的な特徴と、男性的な特徴から成る唯一無二のモザイクなのだ。しかも、モザイクは一生を通じて変化し続け、そのパターンは万華鏡の色付きピースのように融通無碍に変化する。

 

これは経験的に納得できた。

平均的には男性の方が車の運転が得意なのかもしれないが、運転が苦手な男性も得意な女性もいる。

それにマッチョな男性らしいと思われる人に女性的な面があることも珍しくない。

なのに僕たちは男性/女性という身体的な性差から、全てが男性と女性で異なると考えてしまう。

まるで東アジアの一部地域でのみ辛抱されている血液型占いのように。

また関西圏の人はボケとツッコミに長けている、あるいは日本人は…のようなステレオタイプ化された考え方のように。

 

 

いや、そもそも男性らしさ、女性らしさと僕らが考えている価値観はかなり多様で人に優しいのも、控えめなのも、異性に積極的にアプローチするのもどれも「女性的」なのだ。

また生まれてから周りの大人が絶えず「女の子らしく/男の子らしく」あるように仕向ける関わりを無意識に行っているのだ。

ピンクではなくブルーのコップを息子に勧めるように。

恐竜ではなく人形を娘に勧めるように。

 

 

本には性別を書かない履歴書と性別が書かれた履歴書で採用結果が異なる結果の事例が多数紹介されている。

 

そう、僕たちは目に見える性器や体型の違いからその人の中身までわかった気になってしまっているのだ。

自分自身が無意識につけている見えない色眼鏡の存在に気づいたら…

 

 

それまでと世界の見方が変わって見えてくる。

 

もちろん今までの無意識の価値観を意識するのは難しいし、ある意味で自分が差別的な考え方をしていたと受け入れるのは勇気がいることだ。

 

 

 

「ある人が特定の駅を利用できない」

とだけ聞くと僕たちはそれは差別的だと認識する。

その理由が肌の色や宗教や性別なら「それはおかしい」と声を上げる。

だか、その理由が「電動車椅子で介助が必要だから」となると仕方がないことだと考える。

ある事象が差別的であるかどうかと、社会のシステムや費用対効果を考えてどうしていくのかというのは別次元の話だ。

でも僕たちは自分が特権を享受し、ある意味で差別的な扱いを強いていると受け止めたくない、自分が差別をしているというレッテルを貼られたくないあまり、そこで思考を停止してしまう。

見えない色眼鏡を見ないままでいてしまう。

 

 

自覚しよう。

僕たちはみな多かれ少なかれ差別的だ。

大抵の人は目には見えない特権を享受している。

みんながみんなそれぞれの色眼鏡をかけている。

気づいてみれば、世界ないろんなことが違って見えてくるはずだ。