メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

5時に帰る方法は5時に帰ること「残業をやめよう」

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5時に帰る方法は5時に帰ることについての話。

 

 

若かりし頃、結婚する前実家暮らしだった頃は残業するのが当たり前だと思っていた。

盲学校に転勤してすぐの頃は、点字に触れるのが初めてで、かつ教えたことがないどころか一から通して学んだことのない世界史を教えることになり、週4コマある世界史Bのプリント作りに追われ、残業に次ぐ残業の日々だった(盲学校はクラス数が少なく、一般高のように複数クラスで同じ授業をすることがないので、1コマの重みが違う)。

ちなみに大学で教員免許のために学んだ世界史概論Iはフィリピン史で世界史概論IIはアメリカ合衆国シカゴの移民史であった、概論とは一体…

 

毎日部活で汗を流して22時くらいまで残業して帰って寝る日々。

当時を振り返ってみると、生産性はそんなに高くなかった。残業すればいいやと思って悪戯に時間を浪費していた。

自分の残業時間に合わせて、時間の価値を低く見積もっていた。

疲れが溜まり、授業中に眠気に襲われることも珍しくなかった。余裕がなく、イライラしている日も多かった。

また残業をしていない=仕事量が少ないと思い込んでいた。そしてすぐに帰る教員は仕事をしないと思い込んで、ある意味では見下していた(確かに仕事量が少なくてすぐに帰る人もいたのだけれど)。

たしかに残業していたら、仕事の時間は長くなるだろう。

プリントや部活も時間をかければクオリティが上がる面もあるだろうが、時間をかければ生産性が上がるのかというとそうではない。

どこまでを目標ラインにするのか、どこに力を傾けてどこで手を抜くのか。

残業が増えて、帰る時間が遅くなり、睡眠時間が削られたら仕事のパフォーマンスは悪くなるし、ゆとりや余裕がなくなって子どもに厳しく当たる必要のない場面でも厳しくしてしまっていたこともあった(当時はそれが良かれと思っていたのだけれども)。

 

時間を浪費するのではなく、残業しないよう限られた時間の中で効率よく仕事するために考えて早く帰る。少しの空き時間を有効活用する、ショートカットキーなどPCスキルを高めるなどなどできることはたくさんある。まぁ学校という場所では、1コマの時間は決まっているのでそこはどうあっても短縮できないのだけれども。

 

そんなことに、遅まきながら子どもが生まれて毎日お風呂に入れられる時間に帰るようになって気づいた。

早く帰ってゆっくり過ごしてリフレッシュできた方がパフォーマンスも上がる。

学校のこと、教育のこと、子どものことだけを考えるよりも、家庭で過ごすこと、外出して、遊んで、見て、食べて過ごす経験を増やすことが、回り回って自分の引き出しを増やし、それが教育や子どものことに還元されていくこともある。

 

でも、あの仕事があるから…

 

そう思っていては駄目。

まず5時に帰ること。

それから今までの凝り固まった思考や仕事のやり方を見直せば、見えてくる世界が変わります。

さぁ帰ろう。

ズレ勤で退勤は17時45分やけれども笑

介護等体験実習について「セカイヲヒロゲルタメノタネをまく」

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今年も介護等体験実習の学生さんの前で講義する機会をいただけた。‬



‪仕事が増える、意味ないなどの否定的な声もあるのだけれど、僕は将来たくさんの子どもや大人と関わる方に障がいや支援教育のことを発信できるありがたい機会だと思っている。

いやまぁ学生が寝るだなどうだのが問題になって確かに寝るのはあかんのだけれども、学生に「なぜ支援学校に来て、なにを学ぶのか、どこを意識するのか」を伝えて問題意識を持ってもらうと、態度も変わると思うのです…。

 

‪当たり前かもしれないけれど、大半の学生にとって障がいは遠い世界の話で、この福祉や支援教育の業界では常識になっている障がい者権利条約や障がい者差別解消法なんてもちろん知らない。‬

障がいについて知っていることはあるかもしれないけれど、正直、縁のない世界の話だと無意識に感じている学生も多いだろう。


‪でも、インクルーシブ教育も広がり、障がいのある人も高齢者も外国出身の人もLGBTの人もいろんな人がいて当たり前の共生社会に僕たちは生きている‬。

その動きはこれからどんどん加速していくだろう。

‪だから街中で偶然見かけるだけではなくて、生徒として、同僚として、取引先の相手とし、顧客として、障がいのある方と関わる可能性は大いにある。

障がいは遠い世界の話ではないかもしれない。

それに意識していなくても障がいと関わるかもしれない。

例えば、理工学系でホームページをデザインするなら、視覚障がいをはじめ多様な人々にとってアクセシブルなデザインにしていないと、今後は問題になる可能性もある。現実にアメリカではホームページがアクセシブルでないと訴訟が起きている。

東京都の条例では、都内に本社のある民間企業にも合理的配慮の提供が義務付けられている。

 

‪障がいは社会がつくるというなら、その社会をつくっているのは人で、その人々に障がいのことを知ってもらい、必要な配慮をするという考え方が広まれば、社会は変わり制度や常識も変わっていくはずだ。

障がいのある人がいる前提で、いろいろな制度や企画、製品を考えれば、様々な不便や障がいは解消されるかもしれない。

きっと今は社会が変わっていく過渡期なのだろう。

 

‪講義では視覚障がいのことを中心に体験してもらったり、話したりした。シミュレーションレンズを使って見えない子どもの気持ちを体感してもらった。‬

白内障で視界が白く濁ったレンズ、視野の狭いレンズ、視野がまだら状になったレンズ、強度近視のレンズ、視野の真ん中が見えないレンズ、片方が見えないレンズなどをつけて、名前を書いたり、図形の線をなぞったり、絵を写したり、図形をハサミで切り取ったり、文章を読んだりをしながら、「なんでできないの!」「ちゃんと見てるの!?」「しっかりしなさい!」「真面目にやってる?」などと声をかけて、弱視の見え方だけでなく、しんどい立場にある弱視児の気持ちも体験してもらった。


‪でも、相手の立場に立つことは別に視覚障がいだけに限らない。‬

 

‪学校で、会社で、家庭で「なぜできないのか」「ちゃんとしなさい」と言うのではなく、「なぜできないのかを分析し、仮説を立てて検証すること。
‪漢字が書けないのは、見えないから、見たものを認知する力が弱いからか、不器用だからか、記憶の問題か、意欲の問題か、課題の難易度の問題なのか‬。

僕たちの仕事は‪、そのアセスメントなしに「その人の努力不足」だけの問題にしたり叱ったり努力を強制するんじゃなくて(それはプロの仕事ではないし、その辺を歩いている人を連れてきてもできてしまう)、しっかり考えて、無理をさせすぎず、手を出しすぎず、その子の力が伸びていくための具体的な課題や難易度、手順を提示することだと思うこと。
‪そして意外と身近にある障がいに気づいたときにどうするのか考えてみてもらえるとありがたい。

‪と言うような話をさせてもらうと、皆さん顔をあげてこちらを向きながら聞いてくれていた。‬
‪ありがたいなぁ。

 

障がいイコール遠い世界の関係ない話ではなく、自分の身の回りにある世界の話だと思うよう、彼らの世界が変わってくれたらいいなぁ。

普段教えている子どもだけでなく、今回関わった学生さんたちにも、まかせてもらった種が芽吹いて広がって欲しいなぁ。

僕たちの仕事は種をまく仕事だと‬思うから。

「種を植える仕事」という言葉について - メガネくんのブログ

 

 

何かに取り組むときのリスクだけでなく、選択しないときのリスクも考える

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人間は千円払う喜びよりも千円落とす後悔の方が大きく感じる生き物だ。

得るメリットよりも失うデメリットを考えてしまう。

それは原始の時代から生き残るために必要な脳の判断だったのだろうけど、それとは比較できない安全な世界に生きている僕たちは、人間のそんな特性を知っておかないといけない。

脳に刷り込まれたその思考は簡単には変えられないし、拭えない。

 

何か新しいことをはじめようとすると「失敗したときはどうするんだ」という声が必ず聞こえてくる。

組織も人も、長い間同じ状態が続くと良くも悪くも新しく取り組むことが億劫になり、失敗したときのリスクを理由に動かない、変えない、現状維持という選択をすることが多かなってしまうのではないか。

 

学校という現場で、改革しようとしてもこの「失敗したときにどうするんだ」という声で全てが停止してしまうことは珍しくない。

「今までそうだったから」とか「伝統」とかは物事を合理的に判断する際の理由に該当しないと思うのだけれども、「失敗したときにどうするんだ」というリスクが巨大に思えてしまい、新しい何かに取り組まなくなってしまう心理の力はものすごいものがある。

 

たまたま読んでいた記事で題名の言葉を見かけた。

「何かに取り組むときのリスクだけでなく、選択しないときのリスクも考えないといけない」

そう、でも現状維持であること自体がリスクなのかもしれないのだ。

周りが動き、変化していく社会の中で変わらないことは必ずしも良いことばかりではない。「あのとき、あぁしていれば…」と後悔することがないとは限らない。いや、大いにあり得る話だ。

そう考えると、動くときのデメリットが少し小さく見えるようになるかもしれない。

 

大体「失敗したらどうする」と言うけれど、失敗を失敗の経験だけで終わらせるのか、次への貴重な経験にするのかは本人次第だ。

何が成功で何が失敗かわからないということは後になってからでないとわからない。

 

責任を取りたくないというリスク(責任?)回避のその選択が、実はすごく大きなリスクをはらんでいるのかもしれないのだ。

 

僕はこのことを自分自身だけでなく、職場の大人の方々に声を大にして言いたい。

まぁ言っても届くのかはわからないけれども。

そして公立学校では難しいんだろうなぁ。

 

変わらないことと大人になること K先輩の話

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先日友人の結婚式にて久々に出会った先輩についての話。

他のメンツとも会うのが久々な先輩は、結婚式のお祝いムードもありなかなかにテンションが高かった。

というかはしゃいでいた。

ちょける、ふざける、からむ。

大学時代とあまりに変わらない先輩のその姿に懐かしさを覚えつつ、若干の気まずさのこもった生温かい目で僕を含めた皆は先輩を見ていた。

暴走気味の先輩を明らかに持て余していた。

大学生特有のあのノリ。

そしてややネタが古い。

まぁそれはいいけれど。

大好きだったK先輩はあまりに変わっていないのだ。

 

僕たち大学の同期メンバーは、それぞれ仕事につき、結婚し、子どもができとそれなりに社会的には変わってきた。

でもたまに会って飲む度に思うのは、「このメンバーの空気感は変わらない。大人になっても人は変わらないんだなぁ」という安心感だった。

 

それは違った。

知らず知らずのうちに僕たちは変わっていたのだ。

もちろん人間としての本質はそう変わっていないと思う。

みんなとの関係性もそんなに変わらない。

決定的に何かが変わったわけではない。

会えば馬鹿な話ばっかりするのは変わらない。

でも、いつの間にか僕たちはそれなりに大人になっていたのだ。

 

僕たちは、いつの間にか、いろんなこととの距離感や常識と言ってもいい責任感を持った上で行動するようになっている。

子どもの頃に思った大人には、子どもを持つ身なれどまだなっていないのかもしれない。

でも、ある意味では大人になっていたのかもしれない。

K先輩の言動に、そんなことを強く意識させられた結婚式だった。

 

大人になるのがいいことなのかどうかはわからないのだけれども。

 

どうやったら大人になれますか

牛乳とごはんをいっぱい食べたら大人になります。(モモ四さい)

(『神様はいますか?』田口ランディ

神様はいますか? (新潮文庫)

神様はいますか? (新潮文庫)

  • 作者:田口 ランディ
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2005/04
  • メディア: 文庫
 

 

大人になるのはそう簡単なことじゃないんだなぁ。

大人になりたいわけじゃないんだけれども。

書いて整理することの弊害「大切なことは言葉にできない」

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最近ちょこちょこブログを更新している。

それは、本の感想や自分がそのときそのときに思いついたことなんかを忘れないための忘備録の意味合いもある。

人間はすぐ忘れる生き物なので、気づいたら思いついたものは遥か彼方へと消えていき、「あれなんだったっけなー」という思い出せそうで思い出せないモヤモヤだけがその手に残ることになるのだ(そのときに思い出せることはほとんどないが、またふとしたときに出てくる、そう、紛失物のように)。

そんな考えは大抵、深く考えていないときや皿洗いなど何か手を動かすときに出てきて、すぐに彼方へと旅立ってしまうので、最近はブログのタイトルにとりあえず思ったことを打ち込んで、後で内容を書いていくようにしている。

 

思いついたものの、フワフワしてまとまらない思考を文字にして打ち出すという行為は、そのフワフワが逃げないように捕まえて、箱の中に収納し、ラベルをつける作業だと思っている。

ラベルを貼ることで、そのフワフワがもう逃げ出さないように形をつくり、捉えておくことができるのだ。

 

しかし、このラベルを貼る作業、書いて整理することにも弊害があると思っている。

一度文字にして書いてまとめると、フワフワに形が生まれる。形が生まれるとその形がすべてかのように思わされてしまうのだが、フワフワの全てを文字で捉えられているわけではない。

むしろ言葉の限界、文字では捉えられないモノにこそ重要なエッセンスがあるように思えるのだけれども、一度文字という形にしてしまうともうその形にしか見えない、ロールシャッハテストや錯視画像みたいなモノである。

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フワフワしたものを全て文字にするのではなく、文字にできないフワフワをそのまま残しておくこともまた難しい。

 

でも気をつけないといけないのは、文字は残るがフワフワは残らずにふとした瞬間に消えてしまうということだ。

そして、いつしか振り返ったときに、文字に書かれたことが全てだと思ってしまう。

大事な大事なエッセンスを失っているにも関わらず。

表面的なものを形にしたただの文字なのに。

 

とても簡単なことだ。ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない」

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

 

そう、一番大切なことは目には見えないし、文字にもできない。文字にできなかったモノの中にあるのかもしれない。

 

素晴らしい文章や心動かされる作品に出会ったときには、そこにあらわれないフワフワしたものを追ってみるのもいいかもしれない。そのフワフワは、砂漠がどこかに隠した井戸のようなものかもしれない。そのフワフワがあるから、それは美しいのかもしれない。

何が心に響くのかはあなたの心によるはず「できることを一歩ずつ」

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娘と観に行った映画『アナと雪の女王2』から。

アナと雪の女王2 (オリジナル・サウンドトラック)

アナと雪の女王2 (オリジナル・サウンドトラック)

  • 発売日: 2019/11/22
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

 

 

ネタバレになるのであまり内容は話さないけど、エルサのアクションシーンの追加やスヴェンの90年代J-POPを彷彿とさせるMV、オラフの寸劇(エンドロール終わるまで退席しない方がいいですよー)などなど新しい局面がありつつ、もちろん愛や別離の悲しみのシーンもあり楽しい2時間弱の時間だった。

 

ちなみに3歳の娘が一番良かったのは、新たなキャラ、紫と青色のサラマンダー(ブルーニ)が可愛かったことだそう。

 

 

そこなのか…?

まぁ確かにラプンツェルに出てきたカメレオン、パスカルみたいで可愛いんだけれども。

 

 

「未知の旅へぇぇぇえーえーえー」と熱唱したシーンじゃなかったんかいな…?

 

個人的には、絶望の淵に立たされたアナが、それでも「できることを一歩ずつ」と再び歩みはじめるシーン。

多分、自分の心境に一番近かったからなのか。

フルーツバスケットの洗濯物のシーンとも重なる。

できることからコツコツと「とりあえず足許にあるものから洗濯しよつ」 - メガネくんのブログ

 

他にも観ていて、アナってADHDっぽいよなー、後幼い頃に両親を失って姉からも拒絶されたから愛着の接近と拒絶が交互に出てるのかなーとか、エルサは最近話題のHSPっぽいなー、そう言えば前作のハンス王子は相手に何が好きかを聞いてから「僕と同じじゃないか」と共通していることを強調するなど心理テクニックを駆使するサイコパスっぽい感じだったし、なんて心理分析っぽいことを考えたり(多分そんなことを考えながら見ている人は少ないはず)

 

なんて分析しながら、「きっとこの映画館の中にはたくさんの人がいて、みんな同じ映画を見ながら、でも考えたり感じることはみんなそれぞれなんだよなぁ」と考えていました。

 

隣の中学生はポップコーンこぼしたことにパニックになっていたし、オラフのシーンでは全体に笑い声が、スヴェンのシーンでは一部から失笑が、アクションシーンや別離のシーンではハラハラやシクシクと言ったみんなの気持ちが一つになったような感じもあり、でもみんな同じじゃなくて少しずつ違う。

面白いなぁ。

道徳の授業をしていても思うんだけれども、みんなそれぞれ好きなものや嫌いなものは違うし、同じことに対しても抱く感情はそれぞれ異なる。

当たり前のことなんだけれども、僕たちはその当たり前をすぐに忘れてしまうから。

みんな違うのは面白いなぁ。

どんどん悪くなるのが当たり前

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最近、身体が弱ってきた気がする。

子どもが保育園に通うになってからはよく風邪を引くようになった。

魑魅魍魎のようなウィルスが溢れる保育園(大半の子どもが鼻水を垂らしている)では、まるで蠱毒のように凝縮された強力な菌が生まれ、子どもたちが我が家にソイツを持って帰ってくるのだ。

保育園に行きはじめてから風邪を引くのは子どもだけではない。

ストレスからくる身体の不調や頭痛も時折ある。

まぁ医師に全てはストレスですよといわれる - メガネくんのブログでも書いたように、このストレス社会でストレスを避けて生きていくことは難しいのだが…

それだけではなく肩こりや腰痛も強くなった。もちろん幼い子供たちを抱っこやおんぶしているのが原因でもあるだろう。

それに運動する機会は減るし…身体は弱っていく一方だ。

時間が進むにつれて強さがインフレしていくのは漫画の中の世界だけのようだ(あの金色のファルコが名も無き修羅にやられるなんて…)。

 

10代の頃は毎日部活していたし、体育館の使えない週2日はランニングと筋トレに励んでいた。

そんなこともあり自分の体が弱いと思った事はそこまでない。

働きだして、25歳を過ぎた頃からちょっとお腹のぷっくりが目立ちはじめ、腹筋をして凹ませるまでの時間が短くなった。激しい運動した後の筋肉痛が見られるようになった。

いわゆる老いを実感しているのだが、そんな話をすると、30代の先輩からは30を超えるとまた違うと言われ、40代の先輩からはいやいや40を超えるとそんなもんじゃない、50代の先輩からは…といった感じで、まだまだこの先のステージがあることを予言されていた。

今は30代の半ば。このままどんどん身体は弱っていく一方なのだろう。

先日、還暦前の先輩と飲んだ時に言われたのが、「僕はもういつでも体調が悪いからね」「少々の風邪くらいはいつも通りと一緒だね」と言う衝撃の一言だった。

どうやら身体が弱っていくのも若い頃の自分を基準にしているからそう感じるようだ。

この先もどんどん悪くなっていくのが当たり前だという立場に立ってみると、感じ方も変わるのかもしれない。

 

そういえば以前、50代の職場の先輩が言っていた。

「僕たちはもう体の抵抗が下がってきているからインフルエンザになってもそこまで熱が上がらないし、何なら花粉症で出てくる鼻水や涙の量も減ってきた笑」と。

 

そう考えると、教育現場では最近環境が悪くなっているという風潮もある。

少子化の影響か、病休や産休・育休などの代替講師が見つからない、いや、講師自体が見つからずに定年退職した65歳とか70歳近い人にお願いすることもある。

「最近の若いヤツは…」というのは古代バビロニアから伝わる我々人類の悪しき伝統だが、教員採用試験の倍率が下がっているのをみると、教育現場に限らず、労働者の奪い合いは進み、その結果として魅力的と思われない職種では人材の質の低下が進んでいくのかもしれない。

そうなったときに、「昔はよかったのに」とそれまでのやり方を変えず、過ぎ去った過去ばかり見つめるのでは状況は一向によくならない。

どんどん条件が悪くなっていくのだから、そのあり方自体を見直そうという立場たたってみると、とるべき行動は変わっていくのかもしれない。

なんて漠然と考えてみました。