メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

手を抜くことの大切さ

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先日、放課後デイのちゃんとしているちゃんとしていないみたいな話を聞いて思ったこと。

 

 

僕は支援学校という場で働いている。最近は多くの子が放課後を、家庭ではなく、放課後等児童デイサービス(放課後デイ)という場所で過ごす。そこは本来は療育の場なのだけれども、ただ子どもがて好きに過ごしているだけのところがあって、「そんなんじゃダメだ、もっとちゃんとしないと」という声があるみたいな話だ。

この「ちゃんとしないと」はなかなかの曲者で、特に学校現場で働く教員はこの言葉の誘惑に抗えなくなってしまうことが多いようだ。

多分元々は「自分がちゃんとしないと」のはずなのに、だんだんと「自分がちゃんとしてると思われるように、子どもをちゃんとさせないと」となり、いつしか「ちゃんとしないと」は「子どもが全力で頑張っている状態にさせないと」というように変換されていってしまう。

これは熱意のある教員だけでなく、同じく熱意のある家庭や放課後デイでも当てはまるのではないだろうか。

 

ところで、我が身を省みると、そんなにどこでも全力で頑張らことができているだろうか。

「いや…無理だなぁ」

そういう人が大半なのではないだろうか。

常に全力で何事にも取り組んでいたら、すぐに力が尽きてしまう。

試しにスマホのライトを全開にして使い続けてみてくださいな。

長く働き続ける、いや生き続けるためには、適度に手を抜くことや、力の入れどころと抜きどころを判断することが大事だ。太く短い人生を歩みたいなら別だが。

ところが学校という場では、全力で頑張ることが善とされ、手を抜くことは悪であると忌み嫌われる。教員を目指す人が、学校という場でそれなりに成果をあげてきた人だからかもしれないし、どんなに仕事を効率的に進めても授業時間はその場にいなければならないという仕事の特性からくるものかもしれない(なので学校という場で授業に穴をあける有給はあまり歓迎されない)。

以前、小学校から子どもが有給を取得できるようにしたら〜みたいなツイートを拝見したことがあって、個人的にはすごく賛成なのだけれども、皆勤賞を褒める風潮のある学校社会では難しいかなと思う。

 

僕自身は、人はそれぞれの場での顔があることを知っているし、どこでもいい顔をして全力で頑張るような子はいずれ潰れてしまう危険性があると思っている。

なので、熱意のあふれる家庭や放課後デイと話すときには、そのことを共有し、無理のない範囲で取り組みましょうと声をかけるようにしている。もちろん、子どもが自主的にやりたいことはどんどんさせればいいと思うし、そんな風に子どもが思うような仕掛けや工夫ができれば教員冥利に尽きるものではあるのだが。

 

 

というのを言い訳にしつつ、夕食を外食にしたり、洗濯物の山を週末に片付けたりしている。あと食洗機は必須。疲れてるときの食器洗いと洗濯物たたみをしたくなるアイデアがあったら教えてください笑。

名前も知らない人と毎日あいさつをする

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転勤してもうすぐ一年になる。年度当初はコロナ禍の休校措置が継続していたりと通勤のリズムが掴めていなかったりしていたが、子どもを保育園に送ってから出勤するサイクルに慣れてきた。

ある頃から、ほぼ毎朝、勤務先の近くですれ違う犬の散歩をされている人とあいさつをするようになった。

向こうは僕の勤務先の見当がついているのかもしれないけれど、こちらは相手のことは、名前も年齢もどこに住んでいるかも何の仕事をしているのかもわからない。

でも毎朝お互いに「おはようございます」とあいさつする。

 

僕は小さい頃鍵っ子で、近所の年配の方にお世話になってきたからか、そういった知らない人とあいさつをするのに抵抗はない。

いや、見知らぬ赤ん坊と目を合わせたり微笑みかけたり、近所に住む子どもたちとも、見知らぬ子どもとも話したりする(流石に最近はコロナのこともあって知らない子に話しかけることはなくなったけれども)。

子どもの通う保育園でも子どもにも親御さんにもあいさつしまくっている。

 

でも最近の風潮は、「見知らぬ人に声をかけるな」どころか、「同じマンションで顔見知りの人にもあいさつするな」らしい。

「知らない人にあいさつされたら逃げるように教えているので、あいさつしないように決めて」-。神戸市のマンションで、小学生の保護者が提案し、マンション内のあいさつが禁止になったという地元紙への投書がネット上で賛否を呼んでいる。

【ニッポンの議論】「知らない人にあいさつ」って危険なの?(1/5ページ) - 産経ニュース

なんて記事も見つけた。

 

欧米での身体接触を含めたあいさつは、「私は貴方の敵ではありませんよ」という意味も込められていると聞いたことがある。

 

ただ僕もその人のあいさつは敵とか味方とか、親愛とかそんなものではない。

儀式と言うと重いけれど…毎朝のルーティンといったところだろうか。

この先その人ともっと話をするようになるかどうかはわからないけれど、世間の風潮に反して、僕たちは知らない人にもあいさつを続けていくんだろうな。

 

 

*ちなみにお相手は年配の男性である。

好きなものと好きなものを掛け合わせるという壮大な夢

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最近2歳の息子がパウパトロールというアニメにハマっている。

 

犬たちがパトカーや消防車やヘリみたいな乗り物に乗って町のトラブルを解決するという内容のアニメで、最近の丸くなって説教めいたことを言ってくるトーマスと同じ匂いがして個人的にはあまり好きじゃないのだけれども(個人的にはトーマスは昔のように口汚く罵り合い、毎回事故や脱線などのトラブルがある方が好きだ)、めばえの付録DVDのアニメにハマってからは、狂ったようにテレビの録画やDVDを観ている。

なぜそんなに好きなのか、それは息子の大好きな好きな「わんわん(犬)」と「ぶっぶー(乗り物)」の二大巨頭の夢のコラボレーションだからだろう。

 

大好きなものと大好きなものの組み合わせ…これにはすごい可能性を感じてしまう。

 

いや、考えてみたら案外難しいかもしれない。

僕の好きな本と漫画の組み合わせだけれども、小説の漫画化は、漫画のアニメ化や実写化と同じで当たり外れが大きく、個人的に抱いたイメージが壊れるのは嫌だからあまり見ないようにしている。逆にアニメや漫画から原作小説へ向かうのは構わないのだけれども。この心理わかってもらえるだろうか。

あとゲームも好きで、むかしのドラクエ4コマは楽しんでいたけれど、コロコロコミックでよくあるゲームの漫画化もあんまり好きじゃない。

後好きなのは、甘いものくらいだろうか。

甘いものとのコラボレーションを考えていたら、食いしん坊という漫画に出てきた悪食三兄弟を思い出してしまった。

彼らのラーメンにショートケーキを入れてその上からサイダーをかける、カレーの上にぜんざいをかける、すき焼き丼の上にパフェを乗せるのいう食べ方のせいで他のお客が離れ、あるお店は閑古鳥が鳴くようになってしまい…というf:id:megane_kun_ha107:20210227152128j:image

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まぁ彼らには悲しい過去があるのはあるのだが、言いたいのは好きなもの同士を掛け合わせればすごくいいものが出来上がるというのは存外難しいみたいだということだ。

 

息子の大好きな好きな「わんわん(犬)」と「ぶっぶー(乗り物)」の夢のコラボレーションを超えるアニメはあるのだろうか。

次にうちの息子がハマるのはなんなのだろうか。

みんなが誰かに与えることができるなら世の中はちょっと変わるかもしれない『ギブ&ギブの法則』

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『「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則(志賀内泰弘)』という本を読んで思ったこと。

「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則

「いいこと」を引き寄せるギブ&ギブの法則

 

 

この本はフィクションだ。ちょっとできすぎているともおもう。

でも登場するエピソード、左利きの家族へ食器や箸の位置を変えるおもてなしも、耳の不自由なお客様へ地震のときにすぐに駆けつける話も、他人への親切がぐるりといつか自分に返ってくるぐるりの話も、1時間壁打ちをすることで相手への投げかけとその帰ってくる力加減を学ぶ話も、宿代はお客様が決めるという宿の話も実話の話らしい。

 

いや、実話がどうとかではない。

限界集落の多賀良島は、もしかしたら身の回りのコミュニティの、あるいは日本の縮図なのかもしれない。

タルシル和尚が話す、ギブアンドギブの教えは一つの真理なのかもしれない。

「放てば手に満てり。お金やモノなど、すべての欲を捨てなさい。欲によって手に入るものには、限りがあります。また、いくら手に入れても、また欲しくなる。本当に幸せになりたいのなら、今あるモノをすべて手放しなさい。その手から放ちなさい。空っぽにしなさい。そうすれば、反対にあなたの心は満たされるのです……。という意味でゴザル」

 

「ギブアンドテイクと言うのは、人間の恐ろしい力の棲家となりうるのでゴザル。その欲とは、『○○してあげたから、○○してほしい』という欲デス。相手に、『見返り』を求める欲デス。世の中のトラブルのほとんどは、人間関係によるものデス。○○してあげたのに、○○して『くれない』。そう文句を言う。すると相手は、お前だって、この前○○してやったのに、○○してくれたなかったじゃないかと反論する。『のに!』『くれない!』と言い合いになる。『のに』とばかり言っている人は幸せにはなれないのでゴザル」

 

和尚の言葉は、実家のトイレで毎日眺めた相田みつをさんの詩を思い出す。

あんなにしてやったのに

『のに』がつくとぐちがでる

 

うばい合えば足らぬ

分け合えばあまる

 

情けは人の為ならずとも言う。

確かに誰かに与える(個人的には与えるという言い方はちょっと烏滸がましい感じがするのだけれども)ことで、後で何かが返ってくるというのはよくわかる。

妻とのルールで、「ごめんなさい」より「ありがとう」をたくさん言うようにしようとしたのも似ているのかもしれない。

まぁまだ誰にでも与えられる人間ではない。

仕事のライン以上のギブはしたくないと思ってしまう人もいる。

本にあるように「ギブしても損するだけなのは己のギブする力が弱いからだ」とまでは思えない。

その境地までは至れないかもしれないのだけれども。

 

でもこのギブアンドギブの精神が広がるなら、家族やコミュニティ、世の中の雰囲気はずいぶん変わるだろうなと思う。

ちょっとずつできる範囲で、ギブアンドギブを意識してみようかな。

苦手なところではなく必要なところへのアプローチ

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人が自分を変えるためには、何かに納得して自分で選んで決めるしかない。

人に強要されたり、嫌々はじめたことは大抵続かないし、強要する人がいなくなると大抵やらなくなってしまう。どころかその反動が大きい。だから僕は威圧してやらせて、他の先生の前ではやらない子に対して「指導の仕方が甘いんですよ!!」という体育会系の教員があまり好きではない。

考えてみれば世の中にやった方がいいと言われるものは数多ある。

毎日の運動や筋トレも、健康的な食生活、野菜をたくさん食べたり間食や脂肪と炭水化物を控えたりも、

やった方がいいことを理解しても実際に行動しないのは何故だろうか。

それは本人が「納得」して、「必要」だと感じて、そうすることを「選択」したからだ。

 

苦手なことを頑張ることは確かに大事なのかもしれない。周りの人たちは、苦手なことにチャレンジすることが本人に必要だと思っていても、本人はそうしないことがある。もちろん本人の不安、失敗を恐れる気持ちなどもあるのだろうけれど、それが本人にとって必要だと感じているかどうかも大きいのではないだろうか。

 

支援学校で子どもたちと日々関わる僕たちは、子どもたちが自分にとって必要だと感じるために何ができるのだろうか。

 

子どもたちの好きなもの、大事なもの、必要なものを活かす方法もあるだろう。でも、子どもたちの好きなこと、大事なこと、必要なこと、こだわりを活用することは、子どもたちを追い込んでしまう諸刃の刃になりかねないことは忘れてはいけない。

プリキュアからはじまる学びのススメ - メガネくんのブログ

自分が子どもたちの大事な人になるように関係性を築いていく方法もある。まぁ言うのは簡単だけど一朝一夕にはいかないけれど。

本当に叱るべきことは何か。何を言うかより誰が言ったか。信頼関係って大事。 - メガネくんのブログ

将来のために必要なことを伝えることも大事だろう。僕たちの言葉だけでなく、本人が実際に体験したり、外部の人から話を聞くことも有効だ。

本人が直接経験した上で、必要性を実感する方法もある。ただし、本人の自尊感情に配慮が必要だし、失敗したことから振り返ることが苦手な子は多い。

 

なんだ、結構やってるじゃないかとも思う。

でもこの「本人の必要なところへのアプローチ」という視点は忘れないようにしたい。

僕たちはすぐ自分の価値観で考えてしまい、根拠のない当たり前に振り回されてしまう生き物なのだから。

4つの自立を目指して『正しいパンツのたたみ方』

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『正しいパンツのたたみ方(南野 忠晴)』 という本を読んで思ったこと。

 

もう10年も前のことだけど、教諭2年目になるその年に初任者教員の前で話をするという機会をいただいた。

今思い返すと荒削りで方向違いのことがたくさんあったのだけれども、どこかの研修会で聞き齧った「4つの自立」、生活の自立、経済の自立、性の自立、精神の自立についても語ったのを覚えている。

この本の中でその4つの自立にまた出会うなんて。

支援学校ではいわゆる教科科目の知識よりも、働くため、生活するための学びに重きを置く傾向がある。「自立活動」という授業があるし、その学習指導要領もある。

 

学校で自立に向けた勉強をすると言われてもあまりイメージできないかもしれない。でもこの本にある家庭科はその自立にうってつけの教科だろう。衣食住の洗濯やアイロン、裁縫、買い物、料理、生活に必要なお金の計算、僕は社会科の教員なので家庭科と重なる学びの部分があるし、そんな生活に繋がる内容を大事にしてきた(スーパーで売っているものの値段調べや1ヶ月の生活費を考える、悪徳商法対策などだ)。

保健体育なんかも自立した生活に向けては大切だと思うのだけれども、家庭科や保健はいわゆる副教科という扱いで受験で採用されないので後回しにされがちだ。

 

でも、学校教員が大事にしているのは教科の知識だけではないはずだ。

・毎日元気に登校すること。

・与えられた課題を期日までに提出すること。

・ルールを守ること。

・相手の話を聞くこと。

・わからないことを質問したり調べたりすること。

・できないことはできないとはっきり断ること。

・お互いに話し合って結論を出すこと。

それらは知識の獲得だけでなく、仕事や家庭での生活にとって大事なことだという認識があるからこそ、教科書に載っていないにも関わらず教員は繰り返し子どもたちに伝えるのだろう(その内容と現実世界のギャップがあることを否定はしないが)。

 

本の内容について、著者の南野さんは英語教員から家庭科の教員免許を取得する。それは、家庭での家事育児の経験と、心(やる気)の問題ではなく、生活の問題が原因と思われる、授業中にもかかわらず朝から寝ている生徒、なにをやるのもダルそうであらゆることに無気力オーラを出し続けている生徒、いつも不機嫌で、人やモノにあたっていゆ生徒、顔色が悪く、保健室通いが日常茶飯事になっている生徒など、気になる生徒たちの様子の影響からだ。

 

 家庭科を学ぶうちに、わかったことがあります。僕たちの暮らしは、食生活、住環境、被服環境、家族関係を始めとする人間関係、収入と支出という経済問題などが幾重にもつながりながら影響を与えあって成り立っているということです。どれかひとつでもバランスを欠いたりすると、暮らしはギクシャクします。そうなると暮らしのみならず、気持ちの安定を保つのも大変になります。逆に言うと、暮らしがある程度安定していれば、心もからだも穏やかでいられるし、考え方も前向きになって、がんばろう、がんばり続けようという意欲が湧いてくるということです。

 僕は家庭科を学んで、この教科なら生徒の悩みやクラスに寄り添いながら、一緒に考えたり悩んだりできるのではないかと思うようになりました。同時に家庭科では、調理を始め技術的なこともたくさん学びます。一人暮らしをすることになった時、何とかやっていける程度のものですが、木曽西身に付いていれば応用が可能です(僕のように基礎のないところから始めるより、よほど簡単です)。

 自分の暮らしを自分で整える力、それを「生活力」と僕は呼んでいます。「生活力」があると、毎日を気持ちよく暮らせます。少々のことがあっても、簡単にへこんだり、折れたりすることもありません。なぜなら、暮らしを切り盛りしてきた自信が、「なんとか生きていけるさ」という自信をも生み出すからです。それは僕で実証済みです

 僕は、家庭科の教員になって生徒たちにまっさきに伝えたいと思ったのは、この「生活力を身につけろ!」です。なぜなら人生は自分で切り拓いてゆくものだからです。その大前提になるのが「生活力」です。自分の足ですっくと立って毎日を堂々と歩く……。格好いいでしょう。その強い味方になるのが家庭科です。自分の足ですっくと立つ力を、家庭科を通してより具体的に伝えたいと思っています。そして読者のみなさんには、毎日の生活を振り返りながら、自分の生き方に役立つ技術や考え方を一つでも多く身につけて、生きることを存分に楽しんでもらいたい。この本がその役に立てることを強く願っています。

 

そういう意味で家庭科で取り組む4つの自立は、長い人生においてとても役に立つものだと思うし、支援学校からこの「自立活動」という概念が発信され、広がっていけばいいなと思う。

 

ちなみに題名の正しパンツのたたみ方は、妻のパンツのたたみ方がうまくできなくて、自分が洗濯物をたたむたびに妻に「また違ってる…」と言われるのが辛いという悩み相談が由来です。唯一正解の正しいたたみ方がある訳ではなく、家庭科はお互いの違いを知る教科でもあるという話です。我が家の妻はこだわらない派でしたが笑

 

グラデーションとカテゴライズ

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「私とあの人は違う訳ではなく、グラデーションで地続きになっている」という言葉から考えた話。

 

僕は長らく盲学校という見えの困難さを抱える子たちと関わる世界にいた。

働く前の盲学校は遠い世界だった。

白い杖をついている人が視覚障がいの人だというのは知識としては知っていなかったけれど、街中でそんなに見かけた記憶がなかった。

でもそれは僕が自分の世界を閉じてしまっていたからだ。現に、盲学校で働きはじめてから白杖ユーザーを頻繁に見かけるようになったけれど、それは僕が視覚障がい自分の世界の中にあると認識するようになったからだ。僕が働きはじめた瞬間から白杖が記録的に売上を伸ばしたわけではない。

 

視覚に障がいがあると言ってもいろいろな段階がある。盲学校が対象としている子は、幅は広いけれど概ね矯正視力0.3以下の子たちだ。眼鏡ユーザーの僕自身、眼鏡を外すと視力は0.2程度だ。そこから概ね点字での学習で切り替えるべきだと言われることの多い0.02や0.01やそれ以下、目の前の指の数が識別できる指数弁、目の前で手を降ったかどうかがわかる手動弁、光の明るい暗いがわかる光覚、光がわからない全盲といろんな段階がある。視力だけでなく、視野が欠けている子も色の区別が難しい子も眩しさが苦手な子も暗さが苦手な子もいる。そんな見え方のグラデーションは盲学校の子どもたちから眼鏡をかけている僕、視力8.0のマサイ族までグラデーションで地続きになっている。

 

僕の中でグラデーションという言葉は、虹を連想させ、それは自閉スペクトラム症に繋がる。自閉症と呼ばれる人たちの特性や傾向を多くの人が少なからず持っている。その色が濃いか薄いかの違いがあるだけだ。

それは見え方だけではない。学力やテストの点数、走る速さや顔の美醜、身長、体重、体型、頭髪の薄さから脚の長さ、本を読むスピード、優しさ、決断力、読んだ本の数、脳の認知機能や喧嘩の強さまで全てはグラデーションになっている。

 

一方でヒトはカテゴライズして自分の世界を構築して生きている。世の中の大半で基準になるのは絶対的な(そんなものがあるのかどうかはわからないが)グラデーションではなく、自らの周りのコミュニティ内での相対的な位置だ。自分が尊敬する彼と地続きなのは納得できても、見下しているあの子や大嫌いなあの先輩と自分が地続きなのは認め難いものなので、自分とは違う世界のカテゴリーに分けてしまうのだろう。そうやって小さな世界でランクづけをして自分の位置を確かめるのだ。

 

なんとなくだけれど、受験や塾でバイトしていたときの、偏差値自体はグラデーションなのに、東大京大から国公立や早慶関関同立、マーチからFランまでそれぞれにカテゴライズされ、それはとてつもない差があるように思えてしまうアレを思い出す。でもあの偏差値一覧を見れば、意外と近いところや学部によっては逆転していたりもするのに。

 

このカテゴリーという宿命からはなかなか逃れられないのかもしれない。それならば、少しでもカテゴライズした自分の世界を広く、多様性のグラデーションに近づけられるようにするしかない。月並みな言葉だけれども、世界は広い。僕もあなたも世界の端は、中世ヨーロッパの世界観のように断絶しているのではなく、誰かの世界と繋がっているのだから。