本の感想。
『ジェンダーと脳ーー性別を超える脳の多様性(ダフナ・ジョエル/ルバ・ヴィハンスキ)』という本を読んだ。
要約すると、一般的に言われている男脳/女脳というものはない。性器による外観的な違いはあるし、相対的・平均的な男性的な傾向、女性的な傾向はある。だがある日突然クリトリスがペニスに変わらないのとは違い、脳は女性的な働きが男性的な働きに変わることもあるというのだ。そして全てが男性的な、あるいは女性的な脳の持ち主など存在せず、全ての人の脳は男性的な特徴と女性的な特徴が入り混じったモザイク状のものだというのだ。
ヒトの脳は女性的でも男性的でもないと結論づけることができる。それは女性的な特徴と、男性的な特徴から成る唯一無二のモザイクなのだ。しかも、モザイクは一生を通じて変化し続け、そのパターンは万華鏡の色付きピースのように融通無碍に変化する。
これは経験的に納得できた。
平均的には男性の方が車の運転が得意なのかもしれないが、運転が苦手な男性も得意な女性もいる。
それにマッチョな男性らしいと思われる人に女性的な面があることも珍しくない。
なのに僕たちは男性/女性という身体的な性差から、全てが男性と女性で異なると考えてしまう。
まるで東アジアの一部地域でのみ辛抱されている血液型占いのように。
また関西圏の人はボケとツッコミに長けている、あるいは日本人は…のようなステレオタイプ化された考え方のように。
いや、そもそも男性らしさ、女性らしさと僕らが考えている価値観はかなり多様で人に優しいのも、控えめなのも、異性に積極的にアプローチするのもどれも「女性的」なのだ。
また生まれてから周りの大人が絶えず「女の子らしく/男の子らしく」あるように仕向ける関わりを無意識に行っているのだ。
ピンクではなくブルーのコップを息子に勧めるように。
恐竜ではなく人形を娘に勧めるように。
本には性別を書かない履歴書と性別が書かれた履歴書で採用結果が異なる結果の事例が多数紹介されている。
そう、僕たちは目に見える性器や体型の違いからその人の中身までわかった気になってしまっているのだ。
自分自身が無意識につけている見えない色眼鏡の存在に気づいたら…
それまでと世界の見方が変わって見えてくる。
もちろん今までの無意識の価値観を意識するのは難しいし、ある意味で自分が差別的な考え方をしていたと受け入れるのは勇気がいることだ。
「ある人が特定の駅を利用できない」
とだけ聞くと僕たちはそれは差別的だと認識する。
その理由が肌の色や宗教や性別なら「それはおかしい」と声を上げる。
だか、その理由が「電動車椅子で介助が必要だから」となると仕方がないことだと考える。
ある事象が差別的であるかどうかと、社会のシステムや費用対効果を考えてどうしていくのかというのは別次元の話だ。
でも僕たちは自分が特権を享受し、ある意味で差別的な扱いを強いていると受け止めたくない、自分が差別をしているというレッテルを貼られたくないあまり、そこで思考を停止してしまう。
見えない色眼鏡を見ないままでいてしまう。
自覚しよう。
僕たちはみな多かれ少なかれ差別的だ。
大抵の人は目には見えない特権を享受している。
みんながみんなそれぞれの色眼鏡をかけている。
気づいてみれば、世界ないろんなことが違って見えてくるはずだ。