メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

プリキュアで想いが通じる瞬間

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僕は支援学校に勤務しているのだが、そこにいる子どもたちの嗜好は多種多様だ。

 

電車が好きな子

寺社仏閣が好きな子

ゲームが好きな子

アニメが好きな子

テレビが好きな子

YouTubeが好きな子

 

そして一口に電車が好きと言っても、乗り鉄、時刻鉄、駅名鉄撮り鉄インバーター音鉄、アナウンス鉄、座席の手触り鉄、と多種多様だ。

 

そしてアニメのジャンルも幅広い。

最近の空前の鬼滅ブーム。

アニメはあまり観ないのだけれども、原作を毎週ジャンプで読んでいたお陰で、このブームの波に乗り、「お、その炭治郎(禰󠄀豆子、善逸、胡蝶しのぶ)のマスクいいね!」や「全集中の呼吸!」「(傘を左腰に当てて)雷の呼吸 壱の型 霹靂一閃!!」「(歴史の授業で)アァアアア年号がァ!!年号が変わっている!!」などど幅広く活用できている。

子どもたちの好きなものを知っていることはとても重要なポイントなのだ。

子どもに寄り添う力 - メガネくんのブログ

 

もちろんアニメは鬼滅の刃だけでない。

進撃の巨人機関車トーマス妖怪ウォッチ、五等分の花嫁、おしり探偵、花かっぱ、ヒーリングっどプリキュア名探偵コナンドラゴンボール超僕のヒーローアカデミアアンパンマン、呪術廻戦、HUNTER×HUNTERご注文はうさぎですか?ジョジョの奇妙な冒険、などなど

ここに挙げたのは僕の関わったことのある子たちの好きなアニメだ。

Eテレからゴールデン、深夜アニメまでその多種多様さ、ホテルのバイキングか満漢全席のようなごちゃ盛り感には圧倒される。

もちろん全てを網羅することは、家族との時間のような何かを犠牲にしない限り無理そうだ。が、コロナ禍で立ち読みができなくなったとはいえ、ジャンプ、ヤングマガジン、サンデー、マガジン、ヤングジャンプ、チャンピオン、ジャンプSQ、月刊マガジンをかつて立ち読みし、2歳の息子と4歳の娘とEテレをはじめとするテレビを貪ってきた身である。ある程度は対応できるのだ。

 

そしてそんな日々の積み重ねの成果を実感できる時があった。

ある時、校内で娘の大好きなヒーリングっとプリキュアのオープニング曲が聴こえてきたのだ。思わず当たりを見回したのだが、部屋の中からで誰が聴いているのかは、わからなかった。

その後、同僚から「同じ学年のある子がプリキュアが好きで、YouTubeの曲をかけるのだけれど、その子は今のプリキュア(ヒーリングっとプリキュア)の曲が好きなのに同僚は別のプリキュア(スタートゥインクルプリキュア)の曲をかけてしまい叱られる」という話を聞く。

僕は思った「ヒーリングっとプリキュアとスタートゥインクルプリキュアを間違えるなんて…ありえない…」「その子にヒーリングっとプリキュアの歌を歌いに行こう」と。

そう、娘とのプリキュア三昧の日々によって、僕はヒーリングっとプリキュアの曲を全て歌えるまでになっていたのだ。

プリキュアからはじまる学びのススメ - メガネくんのブログ

 

そして、そのときがきた。

僕は「透き通った光は はじまりを照らして…」と前期エンディング曲『ミラクルっとLink Ring…を』を歌い始めた。

するとその子はこちらへでを伸ばし、僕の手と触れ合った(お互いに後で消毒しています)。

そう、心と心が触れ合った瞬間だ。

想いは通じた。

こんなに嬉しいことはない。

こんな瞬間があるから、僕は35歳になった今も日々マンガを読む、毎週ジャンプを買って、アプリで『範馬刃牙』や『嘘喰い』を読み返すのだろう。そしてアニメに心を奪われるのだろう。

 

この瞬間が僕のマンガやアニメへの情熱を蘇らせる…そう、何度でも

鍋を通して都道府県という色あせた素材に彩りを添える

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今週のお題「鍋」より

 

鍋と言われて皆さんは何鍋を思いつくだろうか?

モツ鍋、ちゃんこ鍋、トマト鍋にカレー鍋、豆乳鍋、水炊き、ラーメン鍋、石狩鍋、てっちり、かにすき、すき焼き、キムチ鍋などなど。

 

僕はこのお題を見て思った、「これは都道府県の学習に活かせる」と。

 

都道府県の学習と聞いて思い浮かぶのは、あの都道府県ごとの形や地方区分、県庁所在地や特産品、名物、産業などだろう。

そんな教科書に載っている紋切り型の知識だ覚えて何が面白いのか。そんな知識が将来役に立つのだろうか。そう考える社会科教員の僕は、いろんな角度からみた都道府県を提案する。

 

観光名所やグルメは言うに及ばず、野球やサッカー、バスケなどのスポーツチームの本拠地、やや勢いの無くなった感のあるゆるキャラ、駅弁、鉄道、祭り、出身の有名人、アニメの聖地、何でも都道府県と関連づけることができる。

 

グルメだってそうだ。ご当地ラーメンはみんな知っているけれど、おでんも焼きそばもうどんも全国それぞれで違った形がある。

おでんの具といえば?全国各地のご当地具材や出汁をご紹介!|じゃらんニュース

目指せ、焼きそばマニア!全国のご当地焼きそば10選 | icotto(イコット)

【全国】ご当地うどん30選!讃岐うどん、稲庭うどんだけじゃない!|じゃらんニュース

 

そしてお題の「鍋」である。

北海道の石狩鍋、かにすき、三平汁、鉄砲汁

青森の南部せんべい

宮城のせり鍋、牡蠣鍋

秋田のきりたんぽ鍋、しょっつる鍋

山形はじめ東北の芋煮

茨城のあんこう鍋、しし鍋(ぼたん鍋

群馬のおっきりこみ

東京のねぎま鍋、柳川鍋、どぜう鍋、深川鍋、両国ちゃんこ鍋、桜鍋

石川の治部煮鍋

山梨県ほうとう

愛知の赤からみそ鍋、かしわのひきずり

三重の松坂牛すき焼き

滋賀のじゅんじゅん、鴨鍋

京都の湯豆腐、丸鍋(すっぽん鍋)

大阪のちりとり鍋、てっちり

奈良の飛鳥鍋、

和歌山のクエ鍋

岡山のそずり鍋

広島の牡蠣の土手鍋、レモン鍋、美酒鍋

山口のふく鍋、みかん鍋

高知のくじらのはりはり鍋

福岡の水炊き、モツ鍋

大分のたご汁

などなど

 

これだけで各地方の特色や特産品、歴史など、教科書内容との関連が語れそうである。給食前に画像で見せると、子どもたちが盛り上がること間違いなしだ(ブーイングかもしれないが笑)。

 

いや、都道府県にとどまらず世界に目を広げてもいいかもしれない。

ブイヤベース、サムゲタン、火鍋、トムヤムクンチーズフォンデュキムチチゲタジン鍋などなど世界にも美味しい鍋料理がある。

 

そして単にA=Bのように記号のような知識を暗記するのではなく、こんな鍋でもなんでもいいから使って、知識の糸を伸ばしていくと、どこかで知識と知識が有機的に、網の目のように繋がってくる。そして、その繋がりがなぜなのかを考える。多くの物事には理由がある。そこに気づき、調べることに、学ぶことの醍醐味の1つがあるんじゃないかと僕個人は思っている。

 

まぁ散々理屈っぽいことを言ってきましたが、百聞は一見にしかず。蘊蓄を垂れる前に、今夜はいつもの定番から外して、日本、あるいは世界各地の鍋料理を食べてみてはいかがでしょう?

その経験が新しいなにかの知識の彩となるかもしれませんよ。

自然体でお金と付き合うことの難しさ『億男』

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本の感想。

 

億男(川村 元気)」という本を読んだ。

億男 (文春文庫)

億男 (文春文庫)

 

 

我が家は父親の強い要請で毎年3家族で共同出資して年末ジャンボ宝くじを買っている。残念ながら高額が当たったことはなく、「宝くじは最も割の悪い投資である」と言う言葉を覆すことはできてはいないが…。

この小説は3億円当てた男の話である。

3千万の借金の肩代わりがあり、そのせいで夜の仕事を増やし、妻と娘と別居中のその男は、3億円をどうしたらいいのかわからず、億万長者になった学生時代の親友に会いにいくも、親友からすれば端金のはずのその3億円を盗まれる。

男はその親友の居場所を探すため、かつて親友とベンチャー企業を立ち上げ、親友を裏切って大手企業に売却し、億万長者になった3人、得たお金を公営住宅の床に隠し結婚相談所で出会った金に執着のない男と結婚した女、得た金を無くすためにギャンブルに注ぎ込み、でも勝ち続ける男、金を穢れと思いつつ金儲けのための新興宗教を立ち上げた男に会いにいく。

 

本を読んでいて思った。

自分はいかにお金のことを知らないかと。

ロト6の全ての場合を買った金額を計算したことはあったが、1億円以上の高額当選者の数は知らなかった。お金の授業で、10円玉の図柄を描かせることはあっても、1万円札の大きさは知らなかった(重さは知っていたけど)。

 

以前別のブログで書いた、「お金2.0(佐藤航陽)」 でも思ったが、僕たちはお金を特別視しすぎて、その実態や道具として使うことを十分に学んでこなかったのかもしれない。

『お金2.0』多様な価値感が併存する価値主義の時代へ - メガネくんのブログ

 

お金。

人が生み出した道具であるはずなのに、人が振り回される道具でもある。

お金に執着するでもなく…

お金を拒絶するでもなく…

欲にまみれるでもなく…

無欲でもなく…

人並みの欲を持ちながら生きる

簡単なようで難しいなぁ

 

でもこの本はお金の本であると同時に、幸せを求める本でもある。

「戦おう。人生そのものに。生き、苦しみ、楽しむんだ。生きていくことは美しく、素晴らしい。死と同じように、生きることも避けられないのだから」

 

僕たちが生きることを避けられないように、お金を稼ぎ、使うこともまた避けられない。

でも、あくまでお金は幸せになるための道具なのだ。

神が与える才能

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昔、ジャンプに「花さか天使テンテンくん」という漫画があった。筆者は幕張でディスられまくっていた小栗かずまたさんだ。


漫画はほのぼのした雰囲気で進んでいくが、キーワードになるのが才能の種、サイダネだ。人には誰にも何かのサイダネがあり、天使がじょうろで水やりすることで才能が開花すらという設定だ(ちなみに主人公はこの天使とサイダネをさずからなかった少年の2人である)。

 

職場で取り組んでいる、子どもたちがお互いのことをもっと知るための自己紹介カードの選択肢の1つ、特技を眺めているときに、ふと、このサイダネのことが浮かんできた。

 

自分のサイダネはあるのだろうか?

あるとしたらなんなのだろうか?

 

いくつか思い当たることもある。

マッサージが上手なこと、みかんの皮を剥くのが上手なこと、いつでもどこでも胃の中に何か入っていれば吐けることの3つだ。

 

マッサージが上手は特に習ったわけではなく(もしかすると昔から足裏などを揉んでくれた祖父のお陰かもしれない)、自分が接骨院でマッサージを受けているうちにコツをつかんだ。なかなかに自信があったのだが、盲学校というプロ集団の中に放り込まれてから、自分から言うことは無くなった(一応プロからも学生2年目くらいの実力はあるとのお墨付きは得ているが)。

 

みかんの皮は、まずもみもみしてからむく。そうすることで、皮が外れやすくなるし、酸味が甘味に変わる…多少ではあるが。よくリンゴの皮むきのようにみかんの皮をむいては、子どもの目をキラキラさせる?こともできるが、それだけだ。

 

いつでも吐けるというのは学生時代から僕の身を守ってくれた(もちろん沢山の失敗の産物だ)。僕は体質的にアルコールに弱いのだけれど、この才能のお陰で数多の飲み会を乗り切ってきた。顔はすぐに真っ赤になるが、トイレへ行きリセットする、それでもダメなときは水を飲んで数回ジャンプしてから、もう一度胃の中のアルコール分をリセットする(これ胃洗浄と呼ばれる)。こうすることで、最も早く顔を赤らめていた僕が、最後まで生き残り、介抱や片付けをするというのは皮肉なものだ。

 

そう言えば他にもあった。

本も漫画も読むのが比較的早いし(漫画なら急げば1冊10分はかからない)、漫画の場面をだいたい覚えている(この記憶力がもっと別のものに働けば…と何度思ったことか)、フロアバレーボールの前衛をしていて、聴覚情報を統合するのが比較的得意な気もする。

 

もちろんどれも万人に一人といった才能ではない。

村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』という小説にあったように、神様は僕たちが望むものを与えてくれるとは限らない。小説の主人公は野球のフライをキャッチできることを望んだが、得られたのは別のものだった。(ちなみに僕のお勧めは『糖蜜パイ』だ)。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)

 

 

でも、それがどんなものであれ、僕たちは自分の持つ、あるいは後天的に身につけたモノでやりくりしていくしかないのだ。

配られたカードで勝負するしかない。

たとえそれが、マッサージとミカンとゲロだとしても。

でもまぁそんな半端な才能の塊の大したことのない自分が、今はそんな嫌いではないのだけれども。

 

本質を掴んで翻訳する『見えないスポーツ図鑑』

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本の感想。

 

『見えないスポーツ図鑑(伊藤亜紗/渡邊淳司)』という本を読んだ。

見えないスポーツ図鑑

見えないスポーツ図鑑

 

 

この本は視覚障がいの方々にスポーツの臨場感をどう伝えるかから始まった。

スポーツ観戦という言葉があるように、スポーツは目で見て楽しむという側面がある。なので視覚障がいの方が目で見て楽しむのは難しい。なので、試合の状況を言葉で実況中継する方が多い。

 目の見えない人のスポーツ観戦というと、試合や演技の状況を、言葉で実況中継するやり方が主流です。特にラジオで行われている野球の実況中継は様式化されていて、目が見えない人の間でも根強いファンがいます。野球以外にも、テレビ放送の枠内でさまざまな競技に音声による解説放送が行われています。あるいは一緒に試合を見に行った友達に言葉で説明してもらうこともあるでしょう。

 けれども、実際に当事者に話を聞いてみるとそこには限界もあることがわかってきました。

 たとえば、一体間の問題。説明者にほどのスキルがないと、どうしても言葉が後追い的になってしまうのです。ほかの観戦者たちが盛り上がっているときに、「いま、シュートが入ったんだよ!」と言われても乗り遅れた気分になってしまう。「入るか? 入るか? 入るか? 入ったー!」と言う流れを共有して初めて一体感を味わえるのに「シュートが入った」と言う結末だけを、しかも遅れて伝えられても、いまひとう盛り上がることができません。

 さらに、行為の「質感」の問題もあります。たとえば「ジャンプ」と言葉で言われても、それがどんなジャンプなのかがイメージできないのです。ひとくちに「ジャンプ」と言ってもいろいろです。じっくりとタメてから伸び上がるジャンプもあれば、ふわっと勢いにまかせて飛び出るジャンプもある。そうしたひとつひとつの行為の質感が、言葉にすると抜け落ちてしまうのです。

そこで筆者たちは、ソーシャル・ビュー、ジェネラティブ・ビューイングを経て、視覚障がい者が参加可能な形に試合を「変換」する、その過程で見かけの動きだけでなく、「選手がプレイしているときに感じている感覚」を感戦する、道具を使って、手を動かしながら、時には汗をかく汗戦にもなりながら、スポーツの本質を翻訳していくのです。

ラグビー、アーチェリー、体操、卓球、テニス、セーリング、フェンシング、柔道、サッカー、野球の十種協議が翻訳されている。

 

読んでいるうちに思った。

これは盲学校の授業と同じだと。

 

盲学校では、通常学校と同じ各教科の内容を学ぶが、そこでは内容を精選して伝えている。「精選する」とは、見えないから内容を伝えない、実験をしないという訳ではなく、その本質を別の形に翻訳して伝えるということだ。

例えば、動物の生態の違い(例えば視野や歯の違い)を多くの方は、写真や図で見て学んだだろう。でも、ある盲学校では、実物の骨をゆっくりじっくり触ることで、確認し、知識としていく。

手で見るいのち: ある不思議な授業の力

手で見るいのち: ある不思議な授業の力

 

他にも、熱の伝わりは、最近は色の変わるボードを使うことが多いようだが、鉄の棒の端を持ち、もう一方の端を熱していくことで、視覚から触覚に翻訳するすることができる。感光器という光の明るさを音に変える機械や色識別アプリを使うことで、視覚情報は聴覚情報に翻訳することができる。

理科の実験だけではない、体育でも、盲学校同時のゴールボールサウンドテーブルテニス、グランドソフトボールも、既存のスポーツを触覚や聴覚でプレイできるように翻訳したものだ。

 

各スポーツの翻訳方法は本を読んでもらうのが一番なのでここではあえて紹介はしない。

その姿は、はたから見ると滑稽だろう。でもそうやって模索していく中で伝わるものもある。盲学校で全盲の子たちに試行錯誤して伝えた思い出が蘇る。

 

一番印象に残ったのは柔道の部分だ。

 

ダイナミックに投げるところが注目されるが、実はそこまでの動きわ相手を投げる前のところが大事なのだそうだ。端的に言えば、組手の中で「相手をどうだましつづけるか」という駆け引きがずっと行われていて、目では見えない相手の重心を捉え、相手を動かし、一本を取るためのストーリーを描いていく。

普通の学生とエリートの柔道アスリートは、全身を回転させた技をかけるとき、その途中までは上半身はずっと正面を向いたままで、相手に情報が入るのを遅らせている。

柔道は「一本を取る」というゴール(自分の得意技)に向かっていく過程で、自分がそこに向かって直線的に進むというより、相手をそこに向かうように走らせる「逆転の発想」によるスポーツで、各国の優秀なコーチがそのゴールへのストーリーを考えて用意しているという。

 

そんな言葉は目には見えない、柔道の本質かもしれない。

そう、翻訳するためには、そのものの本質を掴む必要があるのだ。

この本ではその道の専門家を招いての試行錯誤が行われた記録である。だからこそ本質を掴むことができたのだろう。

 

この本は盲学校の同僚に伝えたいなと思う。

授業中に先輩教員と竹籤と凧糸で弓矢を作って説明したあの時間が蘇る。

先日、転勤した今の学校でも同じように弓矢を作った。

 

教員の仕事もある意味では「翻訳」であるのかもしれない。ならその本質を掴んで、伝えられるよう、もっともっと精進しないといけないなと思った。

ありがとうの種探し

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先日読んだ本の感想。

 

発達障害&グレーゾーン子育てから生まれた 楽々かあさんの伝わる! 声かけ変換(大場美鈴)』という本を読んだ。

発達障害&グレーゾーン子育てから生まれた 楽々かあさんの伝わる!  声かけ変換

発達障害&グレーゾーン子育てから生まれた 楽々かあさんの伝わる! 声かけ変換

  • 作者:大場 美鈴
  • 発売日: 2020/06/27
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

筆者の方の声かけ変換表はどこかの施設で見かけてから、職場で紹介し、家の壁にも貼っている。書籍『発達障害&グレーゾーン子育てから生まれた 楽々かあさんの伝わる! 声かけ変換』特設サイトからダウンロードできらので、参考に。

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読んでいて、「うんうん」と頷く場面が沢山あった。

 

「◯◯しちゃだめ!」などの否定的な言い方ではなく、「◯◯しよう」と言った肯定的な言い方で伝える。

「ちょっと待って」「ちゃんと座って」のような曖昧な言い方は避けて、「30秒待って」「足の裏を床につけて、背中を伸ばして、お腹と机の間はグー1個分、手は太ももの上にして座って」のような具体的な言い方をする。

視覚的にわかるような工夫をする。

その子が達成できるように、スモールステップで課題に取り組む。

できたらすぐほめる。

できているところを探す。

相手の話を聞き取りながら内容を整理する。

話が長くなるときや忙しいときは適当なところで切り上げる。

自分はダメだなんて思わず、自分のできていないところばかり見るんじゃなく、できているところも見る。

疲れていたらすぐに休む、愚痴も聞いてもらう。

ちょっとずつ選択肢や判断を子どもに譲っていく。

自由と責任はセットで。

ちょっとずつ「ちょっと」や「ちゃんと」のような抽象的な表現に慣れていく。塩コショウ少々みたいなのも。

あえて視覚的に示さずに言葉だけで聞き取る力も身につける場面を設定する。

好きなものを活用する。

見通しが持てるように予定や流れ、やることを示す。

問題が起きたときには、その前と後のことを確認して原因を分析する。

などなど

 

支援学校で当たり前にやっているはずのこと、課題分析、スモールステップ、構造化、ABC分析、短く具体的にはっきり伝える、伝えたことを確認する、フェーディングなどをとても丁寧にまとめられているいい本だった。

自分のやっていることは間違っていないよと背中を押してもらったような気持ちにもなる。ありがたい。

 

中でも気に入ったのが「ありがとうの種探し」というフレーズだ。

特に思春期になると「すごーい!」なんていう褒め言葉は通用しなくなったり、何かあるんじゃないかと裏を読まれたり、「みんなできている当たり前のことだし…」と否定的にとらえられたりしてしまう。

でも「ありがとう」は別だ。

どんな些細なことでも、こちらが相手にしてもらったことにいう言葉だから。

注意して探せば、ありがとうの種はどこにでも埋まっている(もちろん意識しないとその種は見えなくなってしまうのだけれども)

 

我が家でも、職場のクラスの子どもたちにも、そんな種を見つけて、こちらからどんどん「ありがとう」を伝える。

するといつの間にか、子どもたちも「ありがとう」を返してくれるようになる。

妻とも一緒に住み始めてからした約束がある。「ごめん」じゃなくて「ありがとう」と言うようにしようと。

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そうやって「ありがとうのサイクル」ができていく。ありがたい話だ。

 

さて、今日もありがとうの種を探しにいこう。そして「ありがとう」を子どもたちに伝えよう。

世の中に本当に当たり前のことなんて実はほとんどない。

だからありがとうの種はどこにでもあるのだ。

 

文字と画像と映像の違い

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僕は本が好きだ。

というか文字が好きなんだろう。

通勤中などにスマホの電源が切れ、読む本がなくなると、無意識に車内広告の文字を追っている。軽度の活字中毒というのだろうか。

反対に動画はあまり好んで見ない。アニメより漫画派だ。

動画よりも本や漫画を好むのは、多分、自分のペースで読み進められないからだろう。そして、動画だと自分の想像の余地がかなり制限されてしまう。

 

視覚は人間の情報の8〜9割を占めているという。そして視覚情報は、ダイレクトなイメージとして脳に飛び込んでくる。

それはとてもわかりやすいという利点もあるが、批判的に考えるのが難しいという欠点もある。それぐらい映像の与えるイメージの破壊力は大きい。なので、かの新聞王は、必ず写真を掲載するよう繰り返したという。

 

例えば小説がアニメ化や実写化された場合を考えてみよう。

小説を読んだ各個人の中に、それぞれが想うキャラクターの顔がある。僕の場合は、最初は目や鼻や口が暗くて見えないキャラクターが話し、動いている。それが本を読み進めていくうちに、あるいは繰り返し読むうちに、表情が写り、色が塗られていく。

きっとそんな風にしてつくられるキャラクターは、各個人の頭の中で異なるのだろう。つまり、そこには想像の余地があるということだ。

これが漫画になり、アニメになり、実写映画化されると、自分の想像とのギャップが大きくなり、批判の対象になってしまうのだろう。

逆に、映画やアニメ、漫画から原作小説に入った場合は、最初から表情のついたキャラクターが喋り、動く。そこには想像の余地はない。僕の頭の中のキャラクターは、以前に見た画像や映像に囚われてしまうのだ。

だから僕は映画を見た後に原作小説を見るのをあまり好まない。

 

僕は学校という場で、教えることを仕事にしている。わかりやすく説明するために、視覚支援、画像や映像を活用するし、その効果も知っている。

そして知っているが故に、その欠点についても危惧するところがある。

自分で考えるということをメインに考えた場合、自分が画像や映像化するのではなく、他人が用意し、編集した画像や映像を観ると、そのイメージからは離れられなくなる。

わかりやすく噛み砕いて説明するということは、実は本質から外れてしまうかもしれない。本質的なものは抽象的でわかりにくいので、わかりやすくするために具体的な例えが使われる。

その噛み砕いた説明や例えを聞いてわかった気になってしまう。

自分で考えることが出来なくなる。

見せられた画像が本物とは限らないのに。

見せられた映像は本物の極々一部を切り取っただけのものなのに。

百聞は一見にしかずと言うが、写真の一見と生の体験としての一見では意味合いが違う。

 

視覚は具体的で個別的なものだ。

文字情報はそれよりは抽象的だ。

 

かつて教育実習で塾の講義と同じようにわかりやすくて楽しいを心がけた僕の授業に対して、ある教員は「君の授業は塾の授業だね」と言われた。

当時は反発心しかなかったが、今は自分なりにその言葉の意味を噛みしめている。

 

わかりやすさだけでなく、自分で考える力をつけることを大切にするなら、学ぶツールが変わってくるのかもしれない。