メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

本質を掴んで翻訳する『見えないスポーツ図鑑』

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本の感想。

 

『見えないスポーツ図鑑(伊藤亜紗/渡邊淳司)』という本を読んだ。

見えないスポーツ図鑑

見えないスポーツ図鑑

 

 

この本は視覚障がいの方々にスポーツの臨場感をどう伝えるかから始まった。

スポーツ観戦という言葉があるように、スポーツは目で見て楽しむという側面がある。なので視覚障がいの方が目で見て楽しむのは難しい。なので、試合の状況を言葉で実況中継する方が多い。

 目の見えない人のスポーツ観戦というと、試合や演技の状況を、言葉で実況中継するやり方が主流です。特にラジオで行われている野球の実況中継は様式化されていて、目が見えない人の間でも根強いファンがいます。野球以外にも、テレビ放送の枠内でさまざまな競技に音声による解説放送が行われています。あるいは一緒に試合を見に行った友達に言葉で説明してもらうこともあるでしょう。

 けれども、実際に当事者に話を聞いてみるとそこには限界もあることがわかってきました。

 たとえば、一体間の問題。説明者にほどのスキルがないと、どうしても言葉が後追い的になってしまうのです。ほかの観戦者たちが盛り上がっているときに、「いま、シュートが入ったんだよ!」と言われても乗り遅れた気分になってしまう。「入るか? 入るか? 入るか? 入ったー!」と言う流れを共有して初めて一体感を味わえるのに「シュートが入った」と言う結末だけを、しかも遅れて伝えられても、いまひとう盛り上がることができません。

 さらに、行為の「質感」の問題もあります。たとえば「ジャンプ」と言葉で言われても、それがどんなジャンプなのかがイメージできないのです。ひとくちに「ジャンプ」と言ってもいろいろです。じっくりとタメてから伸び上がるジャンプもあれば、ふわっと勢いにまかせて飛び出るジャンプもある。そうしたひとつひとつの行為の質感が、言葉にすると抜け落ちてしまうのです。

そこで筆者たちは、ソーシャル・ビュー、ジェネラティブ・ビューイングを経て、視覚障がい者が参加可能な形に試合を「変換」する、その過程で見かけの動きだけでなく、「選手がプレイしているときに感じている感覚」を感戦する、道具を使って、手を動かしながら、時には汗をかく汗戦にもなりながら、スポーツの本質を翻訳していくのです。

ラグビー、アーチェリー、体操、卓球、テニス、セーリング、フェンシング、柔道、サッカー、野球の十種協議が翻訳されている。

 

読んでいるうちに思った。

これは盲学校の授業と同じだと。

 

盲学校では、通常学校と同じ各教科の内容を学ぶが、そこでは内容を精選して伝えている。「精選する」とは、見えないから内容を伝えない、実験をしないという訳ではなく、その本質を別の形に翻訳して伝えるということだ。

例えば、動物の生態の違い(例えば視野や歯の違い)を多くの方は、写真や図で見て学んだだろう。でも、ある盲学校では、実物の骨をゆっくりじっくり触ることで、確認し、知識としていく。

手で見るいのち: ある不思議な授業の力

手で見るいのち: ある不思議な授業の力

 

他にも、熱の伝わりは、最近は色の変わるボードを使うことが多いようだが、鉄の棒の端を持ち、もう一方の端を熱していくことで、視覚から触覚に翻訳するすることができる。感光器という光の明るさを音に変える機械や色識別アプリを使うことで、視覚情報は聴覚情報に翻訳することができる。

理科の実験だけではない、体育でも、盲学校同時のゴールボールサウンドテーブルテニス、グランドソフトボールも、既存のスポーツを触覚や聴覚でプレイできるように翻訳したものだ。

 

各スポーツの翻訳方法は本を読んでもらうのが一番なのでここではあえて紹介はしない。

その姿は、はたから見ると滑稽だろう。でもそうやって模索していく中で伝わるものもある。盲学校で全盲の子たちに試行錯誤して伝えた思い出が蘇る。

 

一番印象に残ったのは柔道の部分だ。

 

ダイナミックに投げるところが注目されるが、実はそこまでの動きわ相手を投げる前のところが大事なのだそうだ。端的に言えば、組手の中で「相手をどうだましつづけるか」という駆け引きがずっと行われていて、目では見えない相手の重心を捉え、相手を動かし、一本を取るためのストーリーを描いていく。

普通の学生とエリートの柔道アスリートは、全身を回転させた技をかけるとき、その途中までは上半身はずっと正面を向いたままで、相手に情報が入るのを遅らせている。

柔道は「一本を取る」というゴール(自分の得意技)に向かっていく過程で、自分がそこに向かって直線的に進むというより、相手をそこに向かうように走らせる「逆転の発想」によるスポーツで、各国の優秀なコーチがそのゴールへのストーリーを考えて用意しているという。

 

そんな言葉は目には見えない、柔道の本質かもしれない。

そう、翻訳するためには、そのものの本質を掴む必要があるのだ。

この本ではその道の専門家を招いての試行錯誤が行われた記録である。だからこそ本質を掴むことができたのだろう。

 

この本は盲学校の同僚に伝えたいなと思う。

授業中に先輩教員と竹籤と凧糸で弓矢を作って説明したあの時間が蘇る。

先日、転勤した今の学校でも同じように弓矢を作った。

 

教員の仕事もある意味では「翻訳」であるのかもしれない。ならその本質を掴んで、伝えられるよう、もっともっと精進しないといけないなと思った。