メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

『未来のための江戸学』価値観やものの見方は1つではない

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「未来のための江戸学(田中優子)」 を読んで考えたこと。

未来のための江戸学 (小学館101新書 52)

未来のための江戸学 (小学館101新書 52)

 

 

僕は社会科の教員だ。

社会科の中で大切にしていることは、「なぜWHY」と「どうやってHOW」を自分なりに論理的に説明する力をつけることと、いろいろな考え方のフレームを学ぶことだと思っている。

 

この本「未来のための江戸学」にはそんな考え方のフレームがいたるところにあった。
よく言われる江戸はリサイクル社会というだけではなく、分をわきまえる、因果関係、質素倹約などは、現在の視点からではなく、江戸時代の視点から眺めてくるとまた意味合いが変わってくる。

 

「分をわきまえる」と言う考え方もあった。これは身分制度を守るためだ、と否定的に捉えられるのだが、自然に対して人間の分をわきまえるのは、重要な姿勢ではないだろうか。

分をわきまえることなしに、お金さえあればほとんどなんでとできてしまうのが今の世の中だろうか。分をわきまえないと欲望は止まることを知らない。

貧しさと豊かさ、と言う区分について、私は常々疑問を抱いている。生命の危機に近い貧困はさて置いて、「江戸時代は貧しく現代は豊か」と言う思い込みは、そもそも間違っているのかもしれない。なぜなら現代社会は貪欲と浪費が公然と肯定される価値観を持っているからだ。

かつての豊かさとは、クマールの言う「自然の法則としての豊かさ」であり、「配慮と節度」で補いさえすれば、永遠に持続可能(サスティナブル)な豊かさである。その意味では江戸時代は豊かで、今は貧しい。それが関連の中で逆転してしまうのは、「金銭」と言う抽象的なものを間に入れるからである。

私は、現代人のいう豊かさは「貪欲と浪費」といい換えねばならない、と思う。そして自然界に無駄は無いので、「貪欲と浪費」は必ず欠乏につながる。

なにを豊かと考えるのかは、時代や地域などの文化によって変わる。現代の感覚がそのまま江戸時代に当てはまるわけではない。

 

日本の眺める外国人の目は様々で、そこにはその人の価値観が如実に現れる。江戸は、ロンドンやパリのような建築物もなく汚い都市だ、と考える人ももちろんいる。が、フォーチュンは植物から日本を見ているから、「手入れ」や「小綺麗」や「こざっぱり」と言う見方ができる。

外国人の日本評価には一喜一憂するのではなく、相手の価値基準がどこにあるのか、逆に観察するとよい。

そう、こちらと相手では価値基準が異なるのだから、評価されたされないではなく、相手がなにに重きを置いているのかを知ることが、相手の評価を得る近道でもある。それに評価されないということはイコール価値がないということではなく、相手の価値観にはそぐわないというだけのことなのだ。

 

江戸時代では藩政改革であろうと幕政改革であろうと、第一に行うのは「倹約」であった。倹約の方法は合理的だ。無駄をなくす、ということだけである。例えば藩政改革史上最も知られた米沢藩主上杉鷹山の場合、まず賄賂や不正をやめさせた。そのために世襲代官制度を廃止したのである。世襲は不正を生みやすい。…

次に自分自身の倹約である。鷹山は自ら衣の着用を止め、木綿を着て一汁一菜を実行し、行者祝宴贈答を中止して冠婚葬祭を縮小した。…

倹約とは、未来を見通し、今の無駄をなくして合理的に暮らすことである。たとえば家を建てる時、先のことを考えず贅沢に木材を伐採すれば山は裸になり、洪水が起こる。植林しなければ日本中の山が丸裸になり、燃料にもこと欠くことになる。

江戸時代は植林の時代でもある。山林の伐採の制限と植林のおかけで、現在の山々があるのだ。

結果、現在を生きる僕たちは欧米の資本主義的な、拡大と拡張と進歩を繰り返していく価値観に染まってしまっているのかもしれない。
しかし、資源というものには限りがあり、それを効率化したり新たな資源を探していきながら発展していく方法だけではないことをこの本は教えてくれる。

そういった視点がなければ、江戸から明治、大正、昭和へと僕たちは常に進歩してきたかのように誤解してしまう。

江戸時代だから全て劣っているのではない。

物事はそんな単純なものではなく、立場や見方が変われば価値も優劣も変わるものだ。

ある面からすれば、江戸時代は現在よりもはるかに合理的だったということだ。

もっとも、今現在の価値観を捨てるということは、この世界である意味孤立するということでもある。

ただ現在の価値観だけが全てではないことを、江戸の考えやシステムは示しているのだ。

僕たちは子どもにどうなってほしいのか『中学生になったら』

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『中学生になったら(宮下聡)』を読んで思ったこと。

中学生になったら (岩波ジュニア新書)

中学生になったら (岩波ジュニア新書)

 

 

中学生はもちろん、これから中学生になる人、中学生の親、中学校の先生、そして中学校の先生になろうとしている人など、中学生にかかわっている全ての人にむけた本。

 

この11年の教員生活の中で気づいたこと、大切にしようと思っていることを上手いこと表現してくれた本。

と同時に、これからの自分を支えてくれるもののひとつになる本だと思う。

 

 

いろんなメッセージがあった。

鉄人28号ではなく、鉄腕アトムを目指して!」

という言葉は、自分の頭で悩んで考えて選択して行動する人間になるということ、そして2つの自由、「〜からの自由(今)」を求めて大人や社会と向き合い、「〜への自由(未来)」にむかうために自分と向き合ってくださいということが込められたメッセージだ。

 

ルソーのエミールにあるように「生きるために生まれる」という思春期に、それまでのように与えられたり指示されたまま過ごすのではなく、自らの人生を自分で歩いていくための一歩を踏み出してほしいという想いがある。

 

この「自分で考えて行動することの大切さ」は、勉強や部活、塾や先生の活用、家での家事やお金も含めた生活、そして人生の選択など、この本のどの内容でも繰り返されている。

 

自分で考えて行動するために、いろんな選択肢や考え方も紹介されている。

各教科の面白さ、学んだことはどんなことでもすべて「自分」になること、計画を立てて実行する方法、何のために勉強するのか、自分にあったやり方を見つけること、わからないことをわからないと伝える大切さ、何のために働くのか、高校を選びまた選ばれるために、いじめや不登校、先生や部活が合わないときに、などなど。どれも小噺があり、いろんなエピソードや考え方のフレームの紹介がある。

でも、どの場面でも、「こうした方がいいと思いますよ。」とは書かれていても、「こうしなさい。」とは書かれてはいない。

 

きっと子どもたちには、自分で考えて行動できる人間になってほしいと思うからだろう。

 

 

人間は自分が納得し、変わろうと思わない限り、その行動は変わらない。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

これはマザー・テレサの言葉だそうだが、この言葉をつくっているのは僕たちの毎日の思考だ。

思考を変えるには納得が必要なのだ。

頭ごなしに叱りつけたり、強制すればいいわけではない。

外側だけ良くしても意味がない。

教員や保護者がやらせても意味がない。

本人がどう考えて行動するかが鍵なのだ。

 

そんな風に考えながら本を読むと、この本を読んだ子ども本人が納得し、行動が変わる、自分を変えられるきっかけの一つになればいいなと思われているのかななんて考えさせられる。

以前のブログ「種を植える仕事」という言葉について - メガネくんのブログで書いたように、促成栽培で無理矢理やらせてみてもそれは本当の本人の力にはならないのだ。

 

 

子どもに関わる僕たちは、考えないといけない。

どんな子どもになってほしいのか。

目指すのは、リモコンで操られて動く鉄人28号なのか、それとも自立して自分で考えて行動する鉄腕アトムなのか。

自分で考えて行動してほしいと思うのならば、子どもが「やらないこと、止めること、諦めること、拒否すること」も認めないといけない。

子どもは僕たちの操り人形ではない。

大体、無理矢理強制されたらやりたいと思うのだろうか。

僕なら思わない。

それなら、子どもが楽しんだら興味のあることを一緒に体験する方がよっぽどいい。

そんな楽しむためのコツも紹介されていた。

「北風と太陽」ってすごく示唆に富んだ寓話だなぁと思う。

でも作者は、策士の太陽のように見えて、自然体のままそうあるんだろう。

そんな風になりたいなぁ。

ゆとりやあそびって大事

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先日Twitterで見かけた、コミュニケーションの取れないと言われている子が持っている丸い段ボールの盾を見て、「キャプテンアメリカ?」と聞くと、子どもとの会話がスタートしたという話から思ったこと。

キャプテンアメリカは分かっただろうけど、ライダー系とかウルトラマン系だとダメだっただろうなぁー

僕の中では仮面ライダーはストロンガーで、ウルトラマンはセブンで止まっているので…

銀河英雄伝ワタルとかならわかるんだけれども…

 

 

 

教員として、教科や特別支援、進路、生活などなど知っておかないといけないことがたくさんあります。

それは専門性と呼ばれます。

 

もちろん専門性がないといけないし、そのために日々学ぶ必要があるのですが、そんな知識や指導法などだけではいけないと思うのです。

 

 

教員という仕事は、よくも悪くも狭い世界だし、自分から意識して行動しないと社会との関わりが薄くなってしまいがち。

支援のための知識や技能があっても、子どもとの関係性がないと、何を言っても伝わらない。

そして、「自分は正しいことをやっているのになぜ伝わらないんだ!」と子どもや保護者、同僚、そして自らに不満や怒りの感情を向けてしまうことになるかもしれない。

 

でも、心のゆとりがあればスルーできるかもしれない。

遊び心があれば、そのカチカチに固まった頭や思考をほぐして、もっと面白いことができるかもしれない。

そんなゆとりやあそびがあれば、子どももノッてくるかもしれない。

 

仕事以外の時間をいかにして過ごすのか。

教育関係の本を読んだり、研修に参加したりするのもいいけれど、ゆとりをもったり、遊びに出かけたりするのって大事。

それが回り回って子どものためになるかもしれない。

 

私事だけれども、子どもが出来てからNHKの教育チャンネル(いわゆるEテレ)をよく見るようになった。

ピタゴラスイッチデザインあもめちゃめちゃ面白い。

そしてうちの学校の子どもたちも、よくEテレを観ている。

他の教員が叱ってピリピリした空気も、チャチャッチャチャ、チャチャッチャチャとピタゴラスイッチのテーマを口ずさめば和やかになる。

お父さんスイッチならぬ、〇〇くんスイッチをピッとすれば、座り込んでいた子も立ち上がる。

子どもの好きなものも教えてもらうし、その度に新たな知識が増えていく。今年担任した子がいなければ、韓国アイドルのセブンティーンも、深海魚のデメニギスも、のど自慢も、別虎の蒲鉾も、関心を持たないまま人生を終えていただろう。

 

そんな遊びの中で広がった知見(というほどのものではないかもしれないけれど)が、子どものちょっとしたことに気づくアンテナやとっかかりになったりするものだ。

 

別に子どもに寄り添う力 - メガネくんのブログで書いたように子どもに合わせるだけではなく、自分のやりたいこと、気になること、好きなことに邁進するのも大事。

それらが自分の世界を広げていくはずだし、広がった世界は新たなつながりを生む。

 

ゆとりやあそびって大事だぁーとか考えたら、

仕事サボって遊びに行きたいなぁー

海外旅行行きたいなぁー

映画見に行きたいなぁー

ゲームを3日くらい部屋に閉じこもってしたいなぁー

丸2日くらい寝たいなぁー

バイク乗りたいなぁー

とか心の叫びが聞こえてきました。

なんかできたらいいな。

人に仕事が付くことの弊害「仕事に人がつくことで成長できるんじゃないか」

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学校という現場は昔ながらのやり方が今なお続くことの多いガラパゴス化した世界かもしれない。

そして学校で働く人の仕事量は公平ではない。

特定の人に仕事が集まる傾向にある。

かと言って、仕事量と給料は相関関係にはない。これが営業などの具体的に実績が数字で一目瞭然な業種なら違うのかもしれないが、基本的に子どもがどう変わったか(そしてそれが良かったかどうか)なんてことは、先になってからしかわからないし、評価する尺度が適正かどうかもわからない。

評定によりボーナス金額は変わるが、微々たるものだ。学校によっては全ての教員が一番高い評定を得ている場合もあるそうだ(その評価に意味があるのかどうかはともかくとして)。

 

まぁ要するに頑張る人やできる人に仕事が集まってくるということだ。

 

そして、一度人についた仕事は固定する傾向にある。

新しい業務や企画を進めるときに、パイオニアとなって取り組む人は、意欲のある人や能力のある人、人間関係の調整の上手な人が望ましい。

 

いやいや、本当にそれでいいのだろうか。

よくないだろう。

組織としての新陳代謝が悪くなり、考え方が固定化されてしまう。

仕事をする人が固定化されると、その人がいなくなったときどうすればいいのか。

 

であるなら、いろんな人がその仕事についてみるべきではないだろうか。

仕事に人が付くことで、周りのフォローが必要かもしれないけれど、新たに学び身となることがある。

立場が変われば、視点も意見も価値観も変わる。

今仕事ができている人も、大抵、最初はできなかったり、ミスを重ねていたはずだ。

 

子どものこととなると暖かく見守れるのに、大人のこととなるとすぐに目くじらを立てる教員が多いのはなぜだろうか。

 

そんなことを考えているとあるサイトを発見。

人に仕事が付く状態を招いている原因の一つが組織図。組織図の正しい作り方とそのポイントとは!? | 日本コンサルティング推進機構

 

事業を回すためには、必要となる機能があります。
集客という機能、販売という機能、企画という機能、製造という機能、経理という機能など。
事業の設計ができると、自ずと、必要となる「機能」が見えてきます。
そして、その「機能」を「部位」に落としていきます。それを部門といいます。それを図として表現したものが、「組織図」となります。

「組織図」を観れば、どんな事業を行うのか、どんな事業に向かうのかが解るのです。(また同時に、どんな問題が起きるのかも予測できます。)

 

組織図を作成するときには、どんな事業を行うのか、それを主として明確に決める必要があります。そして、そのための機能と部門を書き出します。
販売の機能を持たせる営業部、製品をしっかり作る製造部、適切に材料を仕入れ在庫を管理するための購買課など。
機能から組織図を作成します。

そして、その各部門に、必要な材料を宛がうことになります。

 

組織図を作成するときには、人の名前を先に入れることをしてはいけません。それこそが、「人に仕事が付く状態」を招くことになります。「仕事に人が付く」ために、機能で作成をします。
そして、その部門が機能するための仕組みを整備することに向かいます。
まずは、部門間で業務を流すための「横」の仕組みが必要になります。そして、判断機能のための仕組みが必要になります。

 

作業をしっかりこなす作業層、適切に判断する主任層、仕組みを改善する課長層、そして、その部門全体を統括する部長。この「縦」の分業も機能させる必要があります。
この縦の分業を機能させられないと、問題が起きます。
イレギュラーな対応ができない、判断できないので社長に都度電話で聞く。対処ばかりで、根本的な業務の改善がされない。目標の未達成が常習化します。

 

うーん…読んでいて考えさせられる。

横の分業も縦の分業も…ないなぁ。

学校という組織をまとめた図表はあるかもしれないけれど、組織図はないなぁ。

必要な材料も足りてないなぁ(新たに採用できないのでこれはちょっと難しいかも)。

 

読んでいて『ムーブ ユア バス』を思い出しました。

ムーブ ユア バス

ムーブ ユア バス

 

 

人材の硬直性とライダーをどうにもできない現状はどうすればいいのか…

何にせよ、組織図や仕事の内容があやふやなままでは整理整頓も改革もままならない。

まずはその辺をきっちりしないといけないなぁ。

グイグイこられると引いてしまう性分「失ったモテ期はもう返ってこない」

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学校行事の打ち上げでの話。

 

自分ではまだまだ若手と思っていたけれど、そうではなかったらしい。

「おい、メガネ!」

と言われていたのが、いつのまにか

「メガネさーん♡」

と若い子たちに言われるようになっていた。

 

ここで来るのか3度目のモテ期。

前のときも彼女がいるときだったし、これで3度あるというモテ期を全て使い果たしてしまった感が…笑

 

かと言ってグイグイ来られても困ってしまうのである。

 

学生時代は惚れっぽい性分で、次から次へと玉砕し、また惚れてを繰り返してきた。

ここぞというときには自分からグイグイいくのである。

 

でも相手から来られると身構えてしまうのだ。

 

考えてみれば、大学生の塾講師で生徒からモテたときも(基本的には彼女たちの勘違い&妄想からくるもの、高校生だった彼女たちは恋に恋するお年頃なのだ)、社会人になってから付き合いでコンパにいっていたときも、彼女がいたか振られたばかりで傷心中だったので、自分からグイグイいかない余裕があったのがモテ期の理由だったのかもしれない。

なぜ高校生のときにその余裕がなかったのか…

いや、高校生だからこそそんな余裕はなかったのかもしれない。

 

 

世の中には需要と供給があって、自分を必要としてくれる層を求めていくのか、自分が恋焦がれる層のニーズに自分を合わせていくのか、どちらかの戦略を練ることも大事だろう。

 

ありのままの自分を好んでくれる人もいるかもしれないし(イケメンならそのハードルは限りなく低くなるのかもしれないけれど)、それは顔かも性格かも気遣いかも性欲かも趣味かもしれないが、自分のこと(強み)を把握しておかないといけない。

というか強みと思っていないことが強みになることもある(世の中にはかなり歳上や太った人が好きな人もいるのはいるのだ)。

それだけでなく、求める相手の好みもリサーチしておかないといけない。性欲や妄想だけで突っ込んでも怪我して終わることも多い。

かと言って、付き合いたいあまり、無理して相手に合わせるとどこかで無理が出てしまうのかもしれない。

 

その辺のバランスをどうすることなのかなということで、恋活は就活と似ているんじゃないかなと思う。

 

そしてこれは大事なことなのだけれども、どこに需要と供給があるのかはわからないから、例えば学校でも人気のない教員がいても、その人を排除するのは間違っているかもしれないと頭のどこかで思っておかないといけない。

 

仕事が全然できないし、子どもに熱心に関わらない教員が、引っ込み思案なアニメ好きな子どもと仲良く話しているかもしれない(これは実際にみたことある)。

スポ根バリバリの体育会系の人に合う子どももいるし、グイグイこられると引いてしまう子もいる(体育会系教員を得意とする子も苦手とする子も多い)。

鉄オタの教員もいれば、ギャンブル大好きな教員もいる、女子高生大好きな教員もいるだろう、世の中のメインストリームとして受け入れられないそこに、ニッチなニーズが隠れているかもしれない。

世の中何がどうなるのか、わからないものなのだ。

 

しかし人生におけるモテ期は3度しかないらしい。後は、あの時のモテ期は良かったなぁと振り返る余生を過ごすのか…

みんな自分は正しいと思っている

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長引く会議が嫌だ。

平行線の話が終わらない。

どちらの側も折れる気がしない。

なので終わりというか話の着地点が見えない。

 

多くの場合、人が自らの思うところを主張するときは、自分を正義の側だと思っている。

自分は正しいことをやっていて、相手は正しくないことをやっているのだと思っている。

 

 

「悪の反対は善、善の反対は悪じゃ。正義の反対は、別の“正義”あるいは“慈悲・寛容”なんじゃよ」というのはクレヨンしんちゃんの野原ひろしではなく、パワプロクンポケット7の悪のマットサイエンティスト、黒野鉄斎の言葉だそうだ。

 

そう、正義の反対は、正しくないことではないのかもしれないのだ。

物事の価値観というものは、時代や場所、立場によって変わる。

 

でも、学校で習う教科書の多くには、明確な正解、正しいことが載っていて、まるでこの世の中にはどこかに一つの正解があるかのように感じてしまう。

教員になる人は、その多くの時間を学校で過ごす。

だから常識や社会性があるとかないとかいう話ではなくて(企業勤をしているからといって常識や価値観が担保される訳ではなく、あくまでその企業内での常識や社会性が保障されるだけだと思う)、1つの正解しか瞳に映らなくなる傾向が強いということだ。

学校で1つの正解を学び、子どもたちへ1つの正解を教える。

そんな環境の中で、自らの価値観や経験に合わないものが出てくると、それを許容できずに拒否してしまうのだ。

 

教育の世界、学校では民主主義や話し合い、平和やみんな仲良くすることが尊重される。

ただ、それらはあくまでも手段や理想とされる状態を表すだけで、それ自体が善ではない。

唾棄されるべき王政や寡頭制だって、迅速さという点では民主主義に勝る。

みんなで話し合った結果が、必ずしも良いものとは限らない。

 

多くの意見や考え、方法を学ぶと、この世に正義はいくつも存在していて、絶対的なものが見当たらないということに気づく。

 

 

これからの時代は、みんなが同じこと、大量生産大量消費することではなく、個人に合わせてカスタマイズされたものを求めていくようになるのだろう。

そうするとますます多様性の幅が広がっていくようになる。

正解は見つけられても、それがみんなにとっての正解とは限らない。

正義の反対は、別の正義なのである。

 

そんな中で、いくつもの正解がある中で、相手の価値観を尊重しながら、落とし所を探っていく。

難しいなぁ。

 

最近はブログの最後に難しいなぁばかり言っている気がする。

 

でも、多様性に満ち溢れ、いくつもの正解があるこの社会で上手いことやっていくためには、その難しさに対処する柔軟性と調整力が必要なんだよなぁ。

学び続けなくても仕事ができてしまうという事実

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教員という仕事は誰かに何かを教える仕事だ。

何かは時代やその人の考え方や想いによって変わる。

そして現在の社会は刻一刻と変化し続けている。

だから、教員は学び続けないといけない。そう言われている。

 

でも全ての教員が学び続けている訳ではない。

むしろ積極的に学ぼうとしている方が少数派かもしれない。

それは忙しく余裕のない環境のせいかもしれないし、本人の意欲のせいかもしれない。

 

ただ残念ながら、学校という場所は気を抜くとゆったりとした時間の流れに足を、そして身体と思考を取られてしまいやすい場所だ。

ある程度年数が経つと、その場所での流れがわかり、授業も1サイクルが回ると流れが掴める。手の抜きどころも分かってくる。

教える内容は教科書や指導者に書いてある。

教科書会社のホームページをのぞけば、丁寧なことに年間の指導計画や評価の観点まであるし、探せば宿題やテスト問題の基になるものも沢山ある。

 

そう、学び続けなくても教員という仕事はできてしまうのだ。

 

そして、不思議なことに、新たな学びや取り組みをせずに、同じことを繰り返していても、十分に仕事ができているように感じてしまう。というかその感じが年々強くなる。

 

 

ちょっと前からネットを使っていろんな情報収集をするようになった。

元々少しは校外の研修会に参加したり、その研修会の内容を伝える校内学習会を企画したりしていた。

 

教員として新規採用されたときに言われた、「これから10年、20年の間、日々学び続け、試行錯誤し続ければあなた方はベテランと呼ばれます。一方、特に学ばず、惰性的に仕事を続けてもベテランと呼ばれます。あなたはどちらのベテランになりたいですか」という言葉があったからだろうか。

 

そんなことをしていて、校内ではそれなりにできる人のポジションにいたはずの自分の自信は、ガラガラと音を立てて崩れることになる。

 

調べ、学ぶ機会や量が増えるにつれ、自分はわかったつもりになって、そこで満足していただけなのだと気付かされた。あるいは言葉で知っていただけで、本質をわかっていなかったり、体験できていないこと、自分の言葉で語れないことが多くあることを理解した。

 

プラトンの「無知の知」ではないが、学ぶことでいかに自分が多くのことを知らないのかを突きつけられる。

 

そして自分の無知は、子どもへと返っていくのだ。恐ろしい。

知らないということはそれだけで罪だとまではいかないが、無知を知った内なる自分が、お前は知らないままでいていいのかと問いかけてくる。

 

もちろん全てを知ることはできない。

知らないからこそできることもある。

 

だけど、単なる知識量の話ではなく、姿勢や意識の話として、学び続けないといけないのだ。

少なくとも自分はそうありたい。

 

さて次はこの想いをどうすれば共有できるのか、広められるのか。

難しいなぁ。

でも、できることは少なくても、自分が学び続けるようにありたいと思うように。

この想いを共有できる仲間が少しでも増えるてほしいのだ。

 

コツコツ

コツコツ

頑張ろう