教員という仕事は誰かに何かを教える仕事だ。
何かは時代やその人の考え方や想いによって変わる。
そして現在の社会は刻一刻と変化し続けている。
だから、教員は学び続けないといけない。そう言われている。
でも全ての教員が学び続けている訳ではない。
むしろ積極的に学ぼうとしている方が少数派かもしれない。
それは忙しく余裕のない環境のせいかもしれないし、本人の意欲のせいかもしれない。
ただ残念ながら、学校という場所は気を抜くとゆったりとした時間の流れに足を、そして身体と思考を取られてしまいやすい場所だ。
ある程度年数が経つと、その場所での流れがわかり、授業も1サイクルが回ると流れが掴める。手の抜きどころも分かってくる。
教える内容は教科書や指導者に書いてある。
教科書会社のホームページをのぞけば、丁寧なことに年間の指導計画や評価の観点まであるし、探せば宿題やテスト問題の基になるものも沢山ある。
そう、学び続けなくても教員という仕事はできてしまうのだ。
そして、不思議なことに、新たな学びや取り組みをせずに、同じことを繰り返していても、十分に仕事ができているように感じてしまう。というかその感じが年々強くなる。
ちょっと前からネットを使っていろんな情報収集をするようになった。
元々少しは校外の研修会に参加したり、その研修会の内容を伝える校内学習会を企画したりしていた。
教員として新規採用されたときに言われた、「これから10年、20年の間、日々学び続け、試行錯誤し続ければあなた方はベテランと呼ばれます。一方、特に学ばず、惰性的に仕事を続けてもベテランと呼ばれます。あなたはどちらのベテランになりたいですか」という言葉があったからだろうか。
そんなことをしていて、校内ではそれなりにできる人のポジションにいたはずの自分の自信は、ガラガラと音を立てて崩れることになる。
調べ、学ぶ機会や量が増えるにつれ、自分はわかったつもりになって、そこで満足していただけなのだと気付かされた。あるいは言葉で知っていただけで、本質をわかっていなかったり、体験できていないこと、自分の言葉で語れないことが多くあることを理解した。
プラトンの「無知の知」ではないが、学ぶことでいかに自分が多くのことを知らないのかを突きつけられる。
そして自分の無知は、子どもへと返っていくのだ。恐ろしい。
知らないということはそれだけで罪だとまではいかないが、無知を知った内なる自分が、お前は知らないままでいていいのかと問いかけてくる。
もちろん全てを知ることはできない。
知らないからこそできることもある。
だけど、単なる知識量の話ではなく、姿勢や意識の話として、学び続けないといけないのだ。
少なくとも自分はそうありたい。
さて次はこの想いをどうすれば共有できるのか、広められるのか。
難しいなぁ。
でも、できることは少なくても、自分が学び続けるようにありたいと思うように。
この想いを共有できる仲間が少しでも増えるてほしいのだ。
コツコツ
コツコツ
頑張ろう