長引く会議が嫌だ。
平行線の話が終わらない。
どちらの側も折れる気がしない。
なので終わりというか話の着地点が見えない。
多くの場合、人が自らの思うところを主張するときは、自分を正義の側だと思っている。
自分は正しいことをやっていて、相手は正しくないことをやっているのだと思っている。
「悪の反対は善、善の反対は悪じゃ。正義の反対は、別の“正義”あるいは“慈悲・寛容”なんじゃよ」というのはクレヨンしんちゃんの野原ひろしではなく、パワプロクンポケット7の悪のマットサイエンティスト、黒野鉄斎の言葉だそうだ。
そう、正義の反対は、正しくないことではないのかもしれないのだ。
物事の価値観というものは、時代や場所、立場によって変わる。
でも、学校で習う教科書の多くには、明確な正解、正しいことが載っていて、まるでこの世の中にはどこかに一つの正解があるかのように感じてしまう。
教員になる人は、その多くの時間を学校で過ごす。
だから常識や社会性があるとかないとかいう話ではなくて(企業勤をしているからといって常識や価値観が担保される訳ではなく、あくまでその企業内での常識や社会性が保障されるだけだと思う)、1つの正解しか瞳に映らなくなる傾向が強いということだ。
学校で1つの正解を学び、子どもたちへ1つの正解を教える。
そんな環境の中で、自らの価値観や経験に合わないものが出てくると、それを許容できずに拒否してしまうのだ。
教育の世界、学校では民主主義や話し合い、平和やみんな仲良くすることが尊重される。
ただ、それらはあくまでも手段や理想とされる状態を表すだけで、それ自体が善ではない。
唾棄されるべき王政や寡頭制だって、迅速さという点では民主主義に勝る。
みんなで話し合った結果が、必ずしも良いものとは限らない。
多くの意見や考え、方法を学ぶと、この世に正義はいくつも存在していて、絶対的なものが見当たらないということに気づく。
これからの時代は、みんなが同じこと、大量生産大量消費することではなく、個人に合わせてカスタマイズされたものを求めていくようになるのだろう。
そうするとますます多様性の幅が広がっていくようになる。
正解は見つけられても、それがみんなにとっての正解とは限らない。
正義の反対は、別の正義なのである。
そんな中で、いくつもの正解がある中で、相手の価値観を尊重しながら、落とし所を探っていく。
難しいなぁ。
最近はブログの最後に難しいなぁばかり言っている気がする。
でも、多様性に満ち溢れ、いくつもの正解があるこの社会で上手いことやっていくためには、その難しさに対処する柔軟性と調整力が必要なんだよなぁ。