メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

「種を植える仕事」という言葉について

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昔同じ学校で働いている先輩が、「俺らの仕事は種を植える仕事や、その種がいつ花になるかはわからんし、芽がでる保証もない、それでも種を植えるんや」と夜更けの居酒屋で語っているのを聞いて「なるほどその通りだ」と心から思ったことがある。

その先輩はいつしか、種を植えたそばから成長と収穫を強要する促成栽培するマンになってしまい、そのための手法として、威圧的に怒鳴る、叱る、その後たまに甘い言葉かけをするというDV的なマインドコントロールの手法を使っているのを見て、僕自身は「なんだかな」と思う訳だが。

この「種を植える仕事」という表現は今でも好きで研修会講師をするときによく使っている。

この言葉を聞いた二十代前半のあのときから、「卒業までの理想像と子どもの実態のどちらに焦点を当てるべきかという葛藤」「生徒本人が自分で選ぶことの大切さの学び」「せっかくの良い内容も本人が訳がわからないまま受けさせられている(と感じている)なら、何一つ本人の中に残らない」なんていう自分の経験や学んで得た知識を増やしてきた。

「種を植えて育てる」考えるが陥りやすい罠について考える。

教員からの一方的発信という考えになってしまうのではないか。

何が大切か、どう生きていくのか、何を選ぶのか、全て決めるのはその人個人であり、家族や教員ではない。

学校教育においては「こうあるべき理想像」がいくつも存在する。

でも、究極的なことを言えば、法律に違反して逮捕されない限り、この国では他の人に指図されずに何でもできる。

でも、「それでは良くない」「もったいない」「こうすればいいのに」と思うから教員は種を植える。でもそうやって植えた種が、芽生え、花開くかは相手(の土壌)次第なんだと思います。

熱意がありすぎると、手間暇をかけて世話をしてやったのに収穫できなくなったとき、今までの熱意は裏返り、「俺があんなにしてやったのに、お前はなんでできないんだ」となってしまうのです。叱る。怒鳴る。体罰なんかの原因もその辺にあるのではないのかな。自分が子どもをコントロールできるんだと勘違いしてしまうのです。

とは言え、お題目のように唱えれば種が芽生えるわけではありません。

良いのか悪いのかはわかりませんが、人間は「何を」言われたかより、「誰から」言われたかの方を重視します。なら、優先すべきは関係性でしょうか。言うならば種を蒔く前に土を耕し、水を撒き、土壌をつくらないといけないのです。

そしてできることは、芽は出ないかもしれないけど「僕はこうした方がいいと思うけど、君はどう思う」のようにアドバイスすることなのかもしれません。そして、本人がそのアドバイスを実感したときに芽がでる(変わる)のかもしれませんね。

最後に、芽が出ることはいいことばかりではありません。自分が良かれと思って植えた種は、その子に全然合わないかもしれません。土を耕そうとしても相性の問題もあります。誰とでもうまくやれる人を僕は疑いの目で見てしまいます。

何が良かったかなんて、時間が経って見ないとわかりません。失敗したと思ったことが、実は生きた経験になっていたり。もちろん、その逆もあります。

その子に合った種を植えて芽が出て花開き、その子が良かったと思えるように。あくまでも選ぶのはその子自身ということを忘れないようにしながら、これからも種を植えていきたいですね。