本の話。
『どうしても頑張れない人たち(宮口 幸治)」という本を読んで考えたこと。
宮口先生のケーキの切れない非行少年たちの続編
前作の感想はこちら
『ケーキの切れない非行少年たち』人間はなかなか相手の立場に立って考えられない - メガネくんのブログ
『ケーキの切れない非行少年たち』自尊感情はそれほど必要なのだろうか - メガネくんのブログ
頑張っている子を応援したいと自然に思う人は多いだろう。
オリンピックでも、勉強でも、近所で開かれるマラソン大会でも、多くの人が他人の頑張りや努力を応援し、感動を得る。むしろ感動を得るために頑張っている人を応援しに行く人もいる。
個人的な話だけれど、初めて参加したマラソン大会で「もう走りたくない」と思いながら気力を振り絞って走っているのに、沿道から「頑張れ!頑張れ!」と連呼されて殺意を覚えたことがある笑。
我が事ではないのに、他人の頑張りに感動する。
それは頑張っている人を応援したいという気持ちに繋がる。
それ自体を否定するつもりはない。
ただ、その理屈でいうと頑張れない子、結果を出さない子はなかなか評価をされない。
当たり前だけれども人には個人差がある。
「特に勉強しなくてもテストで満点が取れる子」
「練習していないのに陸上部よりも早く走れる子」
がいる一方で、
「何度繰り返しても九九が覚えられない子」
「泣きながら練習しても逆上がりができない子」
がいる。
当然スポットライトが当たるのは前者だ。
結果への影響は、努力したかどうかよりも個人の持っている能力によるかもしれない。
100m走のタイムを10秒台から0.1秒縮めるのと20秒台から3秒縮めるのとどちらの方が大変なのかはわからないけれど(もちろんその人によるのだろうけれど)、20秒台の子が情熱大陸で取り上げられることはまずない。
きっとその裏には「努力は報われる」という努力信仰や精神論がまだまだあり、それは「結果が出ない=努力していない」という図式に繋がるのだろう。
でも個人的な意見をいうなら、大抵の人は結果が出るから頑張れるのであって、結果が出ないのに努力し続けられる人は少ない。偉人と呼ばれる人の中にはそんな困難な歩みを続けた人もいるが、その影には志半ばで倒れた、あるいは一番になれなかった人の屍が山のように積み重なっているはずだ。
僕は支援学校で働いている。
そこには頑張れない子、頑張ることから逃げてしまう子ももちろんいる。
「もっと頑張れば…」という思いがないわけではないが、それを伝えたところで何かが変わることはない。お互いに不満が溜まるだけだ。職員室で「なんであの子は…」という言葉を聞き、「まぁそれがあの子ですから」と返答する。
でも、そんな子どもたちを見ているからこそ、彼らなりの頑張りや努力が報われる場面、世間からはそんな程度のことでと言われるかもしれないが、僕たちはそれを見逃さないようにしている。
努力と結果はイコールではないのだから。
悪には悪のヒーローが必要なように、頑張れない子には頑張れないことをわかった上で、それでも見守り評価する人が必要なのだろう。
前作にもあったが、そんな頑張れない子たちも頑張れる瞬間がある。
「鬱病で引きこもりだけれど、好きなアイドルのコンサートには、新幹線で外出し、SNS上で知り合った同じファンの家に泊めてもらう」
「授業は集中できないのに、フォートナイトなら3時間以上ノンストップでプレイできる」
大抵の人は「なぜいつもこんななのに●●できるんだ」と思うのだろう。
でも一人ひとり頑張れるものは違うし、やる気スイッチの場所は違う。
その子のやる気スイッチを探したり、上記の場面からやる気スイッチに繋がるパターンを想像して試してみたり、そういう支援の在り方があってもいいんじゃないだろうか。
願わくば、そういったできない子への視点が広まり、もう少し楽に生きられる世の中になりますように。