本の感想。
タイトルは『自閉症の僕の七転び八起き(東田 直樹)』という本にあった一文。
支援者が成果だけに注目しがちなのは、毎日やっていると、練習が当たり前になるからでしょう。けれども、練習している僕たちにとっては、当たり前ではありません。
支援者は「少しずつできるようになればいい」と言ってくれますが、それは、支援者がそう思っているだけで、練習している人たちは、すぐにでもできるようになりたいと考えているのではないでしょうか。
少しずつでいいのは、周りの人たちの方です。
少しずつしかできるようにならない人は、練習のたびに心の中で、ため息をついていると思うのです。どんな人だって、自分ができるようになっているかどうかくらいわかっているでしょう。
その子にとって、無理のないペースの練習なら楽だろうと思わないでほしいのです。亀のような歩みで練習を続けていくのも大変です。
亀にも亀の苦労があります。
支援者と呼ばれる周りの大人たちは、子どものできた/できないばかりみていないだろうか。
「努力の過程を認めましょう」という言葉に代表されらように、努力している/していないという本人の頑張りばかりみていないだろうか。
前にも書いたけれど、教員という仕事に就く人の大半は周囲よりも勉強や運動ができた側の人だ。
僕たち人間は自分の目で、自分の偏り凝り固まった考え方のフィルターを通してしか世界を見ることができない。
だから本当の意味で勉強や運動ができない子たちの気持ちは頭では理解できても体感できないのではないか。
マラソンを2時間台で走る人はその世界が基準、3時間台、4時間台で走る人はその世界が基準、やっと完走できた人はそこが基準だし、マラソンなんて走りたくないし興味もない人はそこが基準になる。
4時間代の人からみたら、2時間台で常に全力疾走のようなペースで走る人は別世界の超人だし、タイムアウトギリギリの完走やリタイアする人たちは練習不足だと思うのだろう。でも、2時間台に至るまで練習しない自分自身のことを努力不足だと思う人は少ないのではないか。
「マラソンは自分との戦い」なんて言われるけれど、誰しもが自分と闘いながら、自分のペースで前に進み続けている。
そして同じ頑張りでも、前に進むスピードはそれぞれ異なる。
できることや頑張ることだけを求めていったその先の世界にはなにがあるのだろか。
そして閉じている自分の世界の中では、誰もが容易く悲劇のヒロインや孤高のエースになれてしまう。
そしてなかなか自分が亀かもしれないとか、亀の側だったとしたらなんてことは想像しない。
僕自身にもどうするべきかなんてわからないのだけれども、
誰かの数だけ、誰かの大変さや苦労があるものだし、
それの優劣なんて簡単には比較できないはずなのだ。