メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

甘味の犯罪的な、暴力的な、悪魔的な

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コーラなどの炭酸飲料の話。

 

2ヶ月ほど前、気づけば毎日のように炭酸飲料を飲み、それでも渇きが止まない自分自身に気付いた。

「このままではいけない」そう思った。

健康のこともあるし、妻からの勧めもあり、炭酸飲料を断つことにした。

 

こうやって我慢することができれば、いざ寄生虫に身体を乗っ取られかけたときに耐えられるかもしれないし。

 

 

当初は自販機を目にすると、無意識に炭酸飲料を見てしまう自分がいた。

依存とは恐ろしいものである。

砂糖には麻薬と同じ依存性があるなんて話も聞くし。

確かに炭酸飲料に含まれる糖分量を角砂糖で見ると度肝を抜かれる。

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でも、その後にうどんに含まれる糖分量を見るとちょっと安心する笑

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ちなみに僕は生粋のコカ・コーラ派で、ダイエットコークは認めていない。でもダイエットコークに砂糖を入れて飲むと美味しい笑。

魅惑の黒いシュワシュワ - メガネくんのブログ

 

 

話を元に戻して…

ただそこは鋼の意思でお茶か水を摂取し続けた。

そんなある日、2歳の息子とサイクリングをしていて、朝マックで休憩することにした。

息子はハッシュドポテト、そして自分はてりやきマフィンとコーラS氷抜き。

 

かれこれ3週間ぶりほどの炭酸飲料…

それは…

まさに…

悪魔的とでもいうような美味さだった

暴力的な砂糖の甘みを味わった

信じられないくらいの美味さだった

 

江戸時代の薩摩藩が黒砂糖の専売制で500万両の借金を返済し、250万両もの財を蓄えた理由がよくわかる。

誰も甘味の誘惑に抗えないはずだ。

そりゃ勝手に砂糖を売買したら死刑にされるよ…。

 

ただこの炭酸飲料を我慢して我慢して我慢してから最大級の美味さを味わうのはしばらく癖になってしまいそうだ。

言葉の響きだけ聞くとドMっぽくてアカンやつだけど。

怒る人は引き出しが少ない人

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拝見したツイートから

 

「怒る人は引き出しが少ない人」という言葉。

いつからだろうか、多分、29歳のときに中間管理職的なポジションを任されてからだろう、人に対して強く怒ることが少なくなった。

立場上、誰かがある人を批判している場面で、「いやいや、でもあの人にもいいところがあって…」とフォローしてしまう自分がいる。心の底からそう思っている訳でもないのに。

バランスを取ってしまう習性 - メガネくんのブログ

 

教員という立場上のこともあって、あえて子どもたちに叱ることもあるけれど、基本的には感情的になって怒ることは最近はない。

怒って脅して無理矢理やらせても、それは一時的なその場しのぎの対応にしかならない。

だったらその子の原因を探って、その子が変わっていく方法を考えた方がいいよね、と思うからだ。

 

中間管理職時代に、自分に対して怒りをストレートにぶつけてくる先輩がいた。

正直しんどくなった。

その時期には怒りという感情についての本を何冊か読んだ。

その中で、怒りは相手への期待と現実のズレ、もしくは自分の恥ずかしさを隠すためのものだみたいな話があった。

 

子どもや同僚などへの怒りが、期待と現実のズレからくるものなのだとしたら…多様な考え方を知ることや様々な対応方法という自分の引き出しを増やすことが、そのズレをなくしていくことに繋がるのかもしれない。

 

恥ずかしさを隠すための手段として怒る子たちもたくさんいる。

それを叱ってなんとかするのではなく、失敗や間違いをしてもいい雰囲気をみんなで形成するなんて方がいいよねと思う。

だから恥ずかしくても子どもの前で失敗を一緒に笑えたら…いつかそんな子たちの在り方も変わっていくのかもしれない。

なんて思いながら、毎日、試行錯誤を繰り返している。

これが我が子になると、期待が強すぎるのか、なかなか上手くいかないのだけれども。

 

 

働き始めた当初は、頭ごなしに叱ることも少なくなかったのだけれども、そんな僕に、相担任の先輩は「叱るのは10の内、1か2にしておかないといけないよ。でないと子どもの心が離れてしまって、話を聞いてくれなくなるから。それから叱った分、いっぱいその子と遊んであげてね」と教えてくれた。

本や研修会で、いろんな子たちの特性を知り、「そんなこともあるよね」といろんなことを受け流せるようになった。

 

怒るのは引き出しが少ない人なのだとしたら、そうやって時間をかけながら得た本や研修で学んだ知識や周りの人たちとの関わりのお陰で、僕は引き出しを増やすことができたのだろう。

 

たまには感情的になっていいんじゃないの?と自分自身に思わないことがない訳ではないのだけれども。

でも、それがいろんな人と関係をつくっていくことに繋がるのなら、まだまだこれから、もっと引き出しを増やせるようになりたいな。

 

力で抑えつけ動かすのではなく、その子が考えるために『ほめて伸ばすコーチング』

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本の感想。

 

『ほめて伸ばすコーチング(林 壮一)」という本を読んだ。

 

僕自身も小学校からミニバスをやってきた。

小学校でも中学校でも県内トップクラスの実力だった。

毎日遅くまで練習があったし、土日はもちろん、休みは盆と正月くらい。

県外の大会への遠征もよくあった。

もちろん体罰もちろんあった。

部活動について「なぜ僕たちは勝てなかったのか」 - メガネくんのブログ

 

この本は、アメリカで生まれ育ちバスケットボールにどっぷり浸かった著者の息子が日本へ渡り、ミニバスの悪しき洗礼を受けて憧れであったはずのバスケットボールから離れてしまうというストーリーから始まる。

 

殴られながら練習をしていた当時は当たり前と思っていた指導方法…でも今、支援学校という場で教員として働く僕にはその指導法は違和感しかない。

そして暴力や恐怖で統制されたチームや圧倒的な練習量のみを誇るチームは、強いかもしれないが、精神的な脆さや自分たちで考える力の不足といった弱さがあるのだろうと思う。

僕らのチームもそうだった。

 

印象に残った部分を引用する。

 さすがにもうプロの世界では無いでしょうが、今でも暴力を持ち込む監督がたくさんいます。高校サッカーの現場で何度も目にしました。そういう指導者に言いたいのは、選手を殴ったり蹴ったりすれば、その子の技術が上がるのか? ということです。『シュートを外した子に監督が暴力を振るえば、次からシュートが決まるんですか?』『トラップをミスった子に蹴りを入れれば、その子は次からきちんとボールを納められるんですか?』。ミスをした原因を分からせ、課題を与えて練習させることが大事なんじゃないですか? こんな類の指導者と付き合っていたら、選手たちはサッカーが嫌いになってしまいます。日本の子供たちはミスをすると、試合に出られなくなる。シュートを外したら怒られると、大人の顔色を伺いながらサッカーをしています。

 

「大学を卒業して、しばらく経ちますから、授業内容を鮮明に記憶しているわけではないのですが、今、僕が働いているメジャーリーグ・サッカーの世界に『サンドイッチ理論』という考え方があります。選手の良い部分を見付けてから、アプローチする方法です。

 まずはその選手に対して肯定的なことを話し、次に改善点を述べる。『あなたのこういう点が素晴らしい。でも、〇〇すれば、もっと良くなるよ。長所がよりいきるよ』というような感じですね。そして、さらにもう一度ほめて、ポジティブな状態でアドバイスを終わらせるというやり方です。『プラス、マイナス、プラス』でもっていくんです。僕は常にそれを心掛けています」

 例えば、持って生まれた瞬発力がある一方で、技術的には荒く、腿裏の筋肉を痛めやすい選手がいたとする。北川が彼と接する際、まず口にするのは「あなたは素晴らしいスピードを持っているね」である。「十分速いけれど、フォームを少し改善すれば、もっと効率良く、楽に今のスピードを出せるかもしれないよ。そうすればハムストリングの負担も軽減されるかもしれないよ」と、走り方のフォームの改善案を伝えるのである。

「否定したらダメです。まずもってその人の可能性や、持っているものをほめることが大事だと僕は信じます。あなたはいいものを持っていますね、とか、恵まれているんだよと最初に告げることで、向こうも僕の言葉を聞こうとするじゃないですか。それから〇〇の動きをやってみようか? と提案するんですね。選手はいい気分にさせないと、課題を克服する作業に向かおうとしないものです。

 アスレティックトレーナーだけでなく、いいコーチは、まず選手をほめてから、より良くするためにと、問題点を指摘する人が多いように感じます。人の粗を見たり、批判することって楽ですよね。その反面、人のいいところを探し続ける行為って、磨かないとできません。ですから僕が指導者を見る時、どのくらい選手をほかを一つの目安としています」

 

多分これらはスポーツだけでなく、人と人との関わりや教えるということ、教育でもそのまま当てはまることなのだろう。

部活動という点でみれば、僕たちは監督として関わる前に、一人の教員であるのならば、子どもたちがより良くなるようにどうすればいいのかを考えることを放棄してはいけないはずだ。

殴って人を動かす、そんなの誰だってできる。

プロとして働くのなら、それではいけないはずだ。

 

そして子どもたちが考えてプレイするためには、僕たち周りの大人が考え続けないといけないはずだ。

考えることを、試行錯誤することを放棄してはならない。

それと大人も一緒に楽しまないと。

色褪せても記憶には残るもの

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小さい子供は理屈が分かっていなくても記憶には残っている。byでんじろうせんせい

という言葉が好きだ。

 

なので何年かぶりに段ボール空気砲を作ってみた。無駄にスモークマシンも買った笑。

ダンボール空気砲の作り方&実験・遊び方7選|空気砲は科学者への第一歩

 

昔テレビで見たはずなのに、段ボール空気砲の穴の形が円じゃなくて三角や四角、あるいは星形だったときの出てくる煙(空気)の形がどうたったのかを忘れていた。

実際に作って試してみた。

この場で答えは言わないけれど、多分次は忘れないと思う。

きっと一緒に体験した子どもの記憶にも残るだろう。

自分で体験することの大切さってここにあるんだろう。

理屈じゃなくて記憶に残ればそれでオッケーだ。

 

月日のせいで忘れてしまうものは他にもある。

 

あんなに夢中で読んでいた漫画のラストシーン

コントローラを持つ手に汗握りながらプレイしたあのゲームのエンディング

 

なんで忘れてしまったんだろう。

 

でも漫画を読むと色鮮やかに蘇ってくるシーン。白黒のはずなのに色つきで思い出すのはなぜだろう。

スラムダンクのラストシーンは覚えているけれど、まず浮かんでくるのは花道と流川のハイタッチシーンとその直前の石井健太朗の「ぐひん」だ。

 

エンディングは忘れても、手に汗握ったラスボスとのバトルシーンは思い出す。

そして友だちと3人でラスボスと戦っているのをなぜか俯瞰している記憶はすぐに生々しく浮かんでくる。

僕の眼からはテレビ画面と隣にいたあっしーとばばちゃんの2人以外見えていないはずなのに。

開発室は覚えているけれど、そのとき見たはずのエンディングは覚えていない。

 

 

記憶なんて適当なものなんだろう。

思い出がになってしまったものは月日が経つにつれ美化されるものなのだから。

 

調子のいいときの阪神ファン的な

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仕事の話。

 

僕は支援学校で働いていて、当然のことながら子どもたちだけでなくその保護者とも関わる機会がある。

子どもたちは未成年者でその養育責任は保護者にあるため、家庭訪問や懇談、あるいは電話連絡などで保護者と話し、学校での様子や課題、こちらが行なっている配慮や支援について話す。

お互い人間なのでもちろん相性もある。

あの先生はダメだったけれど、今回の先生はいけるみたいなやつだ。

 

過去にもこんな事があった。

前の担任の●●先生は●●してくれなかったので、●●してください。あるいは●●してもらっていたので引き続きお願いします。

僕個人はできる範囲のことは答えたいと思うし(もちろん足並みを揃えるために止められることもある)、要求されたことをするしないの理由をできる限り丁寧に伝えたいと思っている(例えば今の時点だけでなく、卒業後の進路やその先の話もする。なにかをするということは必ずしも良いことばかりではない)。

それが前の担任とやり方が違うことから、信頼されることも失望されることもあるだろう。

 

でも、見た目や人柄の好悪というものは確実にある。

例えば、前年度とほとんど同じ対応をしていても、子どもの調子が良くなったからと言ってもこちらの支援を絶賛して、前担任の支援を全否定する方もいる。

こうなってくると評価される喜びよりも、裏返ったときの恐怖の方が大きくなり、心配になってくる。

まるで調子のいいときの阪神ファンのようなものだ。

勝ってるうちはなんでも熱が入って褒める。

優勝すればカーネルサンダースと道頓堀にダイブだ。

けれど、負けがこんでくると途端に些細なことに対する愚痴が出てくる。

 

バッティングもピッチングも子どもの調子もそのときのタイミング次第、水物みたいなもんだと個人的には思っているので、子どもの調子だけではなく(もちろん調子だけでなく、こちらの支援や関わりが原因のこともある)、こちらの語る内容ややっていることに対して鋭い目で見ながら評価されるところは評価していただければ…というのが偽らざる本音だ。

 

ちなみにうちの亡くなった祖父は生粋の阪神ファンなので、勝とうが負けようが阪神を応援することに変わりはない。亡くなるまで、阪神が勝って巨人が負けた翌日には、必ずスポーツ新聞を買い熟読していた。

 

まぁそこまで盲目的に信仰されるのも考えものなのだけれど…僕たちは卒業してから先は同じように関わることはできないのだから。

 

強く正しい正義感という厄介な価値観

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本の話。

 

『いい子に育てると犯罪者になります(岡本茂樹)』という本を読んで考えたこと。

 

僕たちの個人の価値観は親など周りからの影響がとても強いものだ。

 

  • 人の気持ちを考える
  • ルールを守る
  • 目標に向かって努力する
  • 周りのために我慢する

 

こういった価値観を否定するつもりはない。

でも、僕も含めた多くの人はそのような聖人君子ではなく、人並みに不満もあれば嫉妬や怒りといった負の感情を抱くものだろう。

そして価値観が強すぎるとその人と溜まった負の感情の行き場がなくなり、自分自身やその価値観に合わない他者に向かって爆発してしまうのではないだろうか。

 

 価値観をたくさん刷り込んでいる人ほど、人間関係がうまくつくれなくなります。なぜなら、自分に刷り込まれている価値観と「反対のことをする人」が許せなくなるからです。「行儀よくしなさい」と言われて育った人は、行儀よくできない人を許せなくなります。また、行儀よくできないときの自分も許せなくなります。「当たり前のことをしなさい」という価値観を持った人は、「できて当たり前のこと」ができない人を見るとイライラします。そして、当たり前のことができないときの自分を嫌に感じます。正しい(と思い込んでいる)価値観をたくさん持っている人ほど、生き辛さを感じたり問題行動を起こしたりするのです。どんな価値観を強く持つかによって、人の悩みや苦しみは変わってきます。

 

僕自身も自分の価値観に救われたこともあれば、自分の思う正しさが他の人の正しさと衝突し、しんどくなってしまうこともある。

正しさとは1つではないはずなのに、数学の公式のように唯一無二の正しさがあると人は思い込み、そうしてバベルの塔よろしく高く積み上がった奢る正しさは「正義」となって暴走してしまうかもしれない。

 

 「強い正義感」という価値観は厄介です。なぜなら、他者にも自分にも非常に厳しい生き方を強いるからです。人が常に正しいことをし続けるなど、絶対に不可能です。普通は、正しくないことをしても「たまには、仕方ないよな」くらいで済ませたいものです。しかし彼は「正しいことができないときの自分」がどうても許せないのです。そうして自分自身をどんどん追い込み、自分も他者も傷つける人間になります。

 30歳になって間もない頃、彼は、高齢者から金を搾取する男(被害者)の存在を知り、許せない気持ちを持ちました。また、悪事を見過ごしている自分自身にも腹を立てています。そして、被害者が自分の知り合いの高齢者からも金を騙し取っているのが分かったとき、積もりに積もった怒りが爆発しました。ついに殺害に至ったのです。

 刑務所で初めて面接したとき、かれは「悪いことをした奴を殺して何が悪い。俺は正しいことをやっただけだ!」と彼なりの「身勝手な言い分」を主張しました。確かに高齢者から金を搾取する被害者にも非があります。だからと言って、殺人は絶対に容認されません。しかし自分も他者も絶対に許せなかった彼にとって、殺害以外の方法はなかったというのです。

 原点は、幼少期に彼が父親から受けた言動にあります。「強い正義感」を生み出した父親の厳しい言葉と暴力です。彼は自分の幼少期が事件を起こした原点であることをまったく分かっていません。私と原点を探っていった結果、彼は社会で「男らしさ」を無理して見せる生き方をしてきたことを理解しました。そして、「強い正義感」を持つ背景には、彼が父親に「男として認めてもらいたい」気持ちが強くあったことも分かりました。本当は男らしくなくてもいい「ありのままの自分」で父親から愛してほしかったことに気づいたとき、彼の価値観は根底から覆り、同時に被害者に対して「本当に申し訳ないことをした」という「心からの謝罪」の気持ちが生まれたのです。

 

学校現場で働く僕にとってこの話で思い浮かぶ例はいくつもある。

正しさに自分自身が縛られていたり、正しくありたいのに自分が正しくできていない矛盾からくる苛立ちを「正義感」という仮面を被って正しくない他者に攻撃する。

そんな自分に気づかない子はたくさんいる。

自分の求めるものを、その子が充分と感じるまで満たされていない飢餓感のある子もいる。

 

その子たちが自分でも気づいていない、心の奥底の本音に気づいて、伝えられれば、

みんながお互いにもう少し寛容になって生きやすい世の中になるのになぁと思った。

間違いを犯したときに必要なのは反省ではなく…

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本の感想。

 

『反省させると犯罪者になります(岡本 茂樹)』 と『発達障害と少年犯罪(田淵 俊彦/NNNドキュメント取材班)』という本を読んだ。

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

反省させると犯罪者になります (新潮新書)

  • 作者:岡本 茂樹
  • 発売日: 2013/05/17
  • メディア: 単行本
 

 

「反省させると犯罪者になる」というある意味センセーショナルな言葉は、以前にTwitterでみかけた「薬物使用などの犯罪を犯した芸能人に対して、責めたら謝らせても問題の解決には至らなくて、本人の弱さや薬物を使用してしまうまでの過程と向き合わないといけない」という言葉に繋がるものを感じた。

 

学校で問題行動を起こしたとき、過去の体罰も含む厳しい指導で押さえ込こもうもする対応は僕が子どもの頃からそんなには変わっていないだろう。

厳しく指導すれば、常に監視の目を光らせれば、確かに校内や在学中の問題行動は無くなるかもしれない。

でも問題の種火が燃え上がらないだけで、奥底では燻っている状態、それがその先でより激しく燃え上がることまで厳しい指導で抑えられるわけではない。

 

支援学校で働く僕も子どもたちの問題行動に対応する場面がある。厳しい指導を全くしない訳ではない。でも、なるべく話を聞き、「なぜそうなったのか」を掘り下げるようにしている。それが問題解決への遠回りのようで近道だからだ。

「アイツの言動がムカついたから」「あの子だけズルいと思ったから」相手に対して加害を加える理由を尋ねると、必ずと言っていいほどまず相手への想いが出てくる。

でもその裏には自分が馬鹿にされていると思う認知の歪みや、自分への劣等感、モノやココロが満たされない渇きなどが隠れている。あるいは他者の感情を理解したり、共感したりするスキルも必要になるだろう。そこに自分で気づくことができるのか、それによってその後の歩みは変わるのだろう。

 

反省させるのは、ある意味その気持ちに蓋をしてしまうことになるのかもしれない。

『反省させると犯罪者になります』にあるような謝罪の気持ちだけを吐き出す作文では、何故自分が犯罪という方向に向かったのかの本当の根っこの部分が見つからないまま、表面的な反省で終わってしまうのかもしれない。

 

発達障害と少年犯罪』にあるような、相手の気持ちを理解することが難しい子たちとは日常的に接する機会がある。本では子どもたちの認知機能をたかめるトレーニングが紹介されていた。僕自身も子どもたちへ、自分と相手の考え方や感じ方が違うことからスタートし、自分の感情や相手の感情の理解、怒りの感情コントロール、モノの見方や感じ方、自分の言動が変われば相手も変わることなどを繰り返し伝えている。それはとても時間も手間もがかかるのだけれども、叱られるだけでなく、子どもたちが納得して変わっていく手応えを感じている。

それ以外に、犯罪を犯した子たちが心の奥底で抱えていた、親への叫びのような、愛着の課題とでも言うような、満たされない想いを受け止めることも必要なのだろう。

 

犯罪を犯した少年たちに求めるものが罪を償うための罰を受けるものではなく、自分自身を振り返り、そこからの自分自身を変えていくことなのだとしたら…まず求めるのは反省ではなく、抑圧され心の底に膿のように溜まった本音を吐き出すことなのもしれない。