メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

スマホを忘れてみて思ったこと

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子ども2人を連れて某プラレールのイベントへ行った。

家を出てすぐにスマホを忘れたことに気づく。

「まぁいいか」と思う。

最近スマホ中毒気味だし、いい機会だと。

子どもとの思い出をスマホに頼らず、全力で体感しようと。

 

でも困る。

せっかくのイベントで撮影スポット盛り沢山なのに、写真が撮れない。

家にいる妻と連絡が取れない、何時に帰るか言ってなかったよ…ごめん。

それから大きな怪我とか起きたらどうしよう…とか考えたけれど、まぁ、なんとかなるやろの精神でそのまま運転を続行。

 

会場に着いたら、微課金のスタンプラリーをひとりで回る娘に驚いたり(いつの間にか数字をマスターして順番に辿って行くのだ)、何十台もプラレールが動き回るジオラマを口を開けて見ている子ども2人を発見したり(これは本当に動画を撮りたかった…)、ポテトとソフトクリームを買わされたり(あんなにポテト欲しがったのにシール張りに夢中で全然食べず、その後「パパ食べすぎ」と叱られる)、有料課金の乗り物に乗ったり(なぜプラレールなのに消防車に乗るのか…)、「プラレール買いたい買いたい」というのをかわしてタオルで納得してもらったり、昼寝をせずに不機嫌マックスで「ママとがよかった」と泣き叫ぶ娘を抱っこしたり、でも息子も抱っこ紐で支えてるので無理な姿勢で抱えて左腕がつりかけたりといろいろあったことを帰って妻に報告、祖父母は写真や動画をシェアできないので残念やけど、スマホがない分、ずっと子どもと向き合い続けられたのが良かったなぁと思う。

多分、スマホを持って行ってたらちょこちょこ触ってたはず。

まぁ妻とはいつも話してますけど笑

 

先日の子どもの保育園の発表のときも、ビデオカメラのケーブルが行方不明で、スマホ撮影は禁止のため、記録はなしで観たけれど。

ビデオは繰り返しみれるけれど、やっぱり我が子ばっかり見てて周りの子との絡みや全体の進行なんかがわからない。

その点、今年はハナからビデオがないのでゆっくりじっくり観れた気がする。

 

スマホは便利。

でも便利すぎてついじっくり集中して向き合うことが疎かになってしまうかもしれない。

 

僕は盲学校で働いていて、見てわからない子たちに伝えるために言葉で説明したり、いろんなものを触ってもらう。

それはまだ見るより時間がかかり、正直大変でめんどくさいなと思うときもあるのだけれど、自分でも思いもしない発見につながることもある。

当たり前だけど目で見ただけだと、そのものの裏側はわからないし(もしかしたらびんぼっちゃまくんみたいな服かもしれない)、触った感触もわからない(本当に触ってみないとわからないはずなのにわかった気になってしまう)、耳をすませば気づくことも多い(電車のホームで耳をすますと上りと下りの接近や発車のメロディが違うことがあるのに気づきます)。

見るということはすぐ情報が伝わるんだけれど、それはあくまで表面的なものも多くて、そのせいで僕たちは大事なものを見落としてるかもしれない。

 

スマホもおんなじで、便利なんだけど、今更スマホを使わない生活はできないんだけど、でも眼で見ることとおなじで、気をつけないと大事なものを見落としてしまうかもしれへんなと思いました。

今日の話は以上です。

なんのために宿題するのか

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なんのために宿題を出すのかという問いについての話。

 

 

これは与えられた課題をこなすとかではなく、その後の自分の生き方にも繋がる問題なんだと思ってます。

 

そもそも完全にわかっていることを何度も繰り返す必要があるのか。

必要がある場合もあるかもしれないけれど、多分コスパは悪い。

だからマリオブラザーズは、みんな1-2のステージで天井を通り抜けて先のステージへ一気にワープするのだ。

 

そして嫌々やらすことが習慣に繋がるのかというと必ずしもそうではないよなーと思う。

もちろん数をこなすことは質の向上に繋がるのだけれども、嫌々やるのはコスパが悪い。

そんな嫌々やるより、好きなことのパワーを使って、自分のやりたいことをどんどんさせた方がいいのではないか。

 

昨今流行のけテぶれ。

僕は個人的にはすごくいいと思ってます(もちろん全員にハマるかというとそうではないこともあるとも思います)。

「けテぶれ」宿題革命!

「けテぶれ」宿題革命!

 

 

子どもの教科や勉強の好き嫌いの大半は、できるかどうかに左右される。

当然、テストができる子はより好きになり、テストで点数をとるために勉強に意欲的になる。

できない子はやる気をどんどん失っていく。

それが、自分で勉強方法を工夫して(教員からの提示も必要な場合もあるかと思いますが)、自分に何が必要かを分析して、練習して、計画を立てて、テストの点数が上がって、好きになって、というサイクルはハマればすごいパワーになる。

僕自身、中学校まで社会科が得意だったけど(勉強してなくても点数が取れたし)、高校では勉強をあまりせずに点数が下がり、ちょっと嫌いになりかけた(勉強することでやっぱり点数が上がり、それがモチベーションになって、通学の電車中で教科書を読み込むという若干ヤバイ人になっていましたが…笑)。

 

それだけでなく、一方的に宿題を課される側から、自分が主体的に考えて行動する習慣を身につけられはことは、テストの点数が上がる以上に、その子の人生にとって価値のある(かもしれない)ことなんじゃないかなと密かに思っているんです。

 

子どもが主体的に動くってことは、本人が悩んで迷って、納得して、決めて、行動して、責任を持つ(結果を受け止める)ことが必要不可欠だと思います。

逆に自分で考えず、指示されたことだけをしてきたり、叱られて無理矢理させられてきた子は、できない原因を自分以外の家庭や学校、親や教員や友人に求めらようになってしまう(ケースをいくつか見てきた)。

 

宿題が子どものためと言うのなら、本当に子どものためになるようなあり方を考えることは大事なのではないかと思います。

君の授業は塾の授業だねと言われる。

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本の話。

 

「残念な教員(林純次)」を読んで思い出した過去の教育実習時代について

残念な教員 学校教育の失敗学 (光文社新書)

残念な教員 学校教育の失敗学 (光文社新書)

  • 作者:林 純次
  • 出版社/メーカー: 光文社
  • 発売日: 2015/02/17
  • メディア: 新書
 

 

自分は大学時代に大学進学塾講師のアルバイトをしていた。担当していたのは現代文、古典、英語、日本史だった。

ウチの塾は1〜4人の少人数型と複数人を対象にした講義型に分かれていた。

バイト代の時給は、地区幹部?の偉い人の前で模擬授業をして、その結果によって決められる方式だった。

ちなみにその塾では、時給2,500円未満は青銅聖闘士(ブロンズセイント)、時給3,500円未満は白銀聖闘士(シルバーセイント)、時給3,500円以上は黄金聖闘士(ゴールドセイント)と呼ばれていた。

 

大学4回生で迎えた母校での教育実習。高校生へ日本史の講義(3年目)をしていて、当時新米黄金聖闘士になっていた僕は、今思えば自信過剰で実習に臨んでいた。

担当の授業は日本史B古墳時代からはじまる授業は手慣れたもので、塾では使っていたプリントをアレンジしながら、受験対策をしたわかりやすく楽しく刺激のある授業を目指して授業を進めていた。

他の教育実習生と比べると経験値の余裕は確かにあり、例えば授業中にウトウトした生徒に「今寝てた?」「寝てません!」「そうか、じゃあ寝てたかどうかを神様に判断してもらおう。この煮えたぎるお湯の底から石を取り出してみて。君が嘘をついていない正直者なら神様が守ってくれるから」「…」「というのが盟神探湯(くがたち)というやつでこの頃の裁判で行われていました。ちなみに抜け道があって…」みたいなくだりを即興でするくらいだった。

生徒からもわかりやすいと好評だったのだけど、ある教員から冒頭の「君の授業は塾の授業だね」と言われるのである。

その教員は自分が高校在学中から授業があまり上手でないと評判の教員であり、内心、「何言うてるねん。自分の方が授業上手いし」と思っていた。実際に生徒たちからも、他の実習生からも僕の方が授業が上手いしわかりやすいと言われていた。

そうして自信に溢れて授業を進めていた僕に、指導教官の先生から「君はこれ以上授業のやり方を工夫しないのかい?他の実習生はどうしたらもっと伝わるのかを試行錯誤しているよ」と、内心を見透かされたように言われた。

他の実習生は、コントをしたり、イラストを描いたりしていたが、正直知識量や指導技術不足で見る価値がないと思い込んでいた。

 

その実習当時はわかっていなかったと思うけど、今ならわかる。

確かに僕の授業は塾の授業だった。

内容を噛み砕いて整理し、わかりやすく伝える力はあった。

受験で必要なポイントを抑え授業していた。

それなりに知識があり、余裕もあって当意即妙な授業ができていた。

でもそれだけだった。

 

授業の中でしていたのは発問ではなく知識を確認するための質問だった。

知識を伝えることが授業の中心で、生徒が考えることを意識していなかった。

もっといえば社会科、日本史という教科で何を伝えたいか、子どもたちにどんな力をみにつけてほしいのかという問いを自分自身にしていなかった。

 

まぁ僕に「君の授業は塾の授業だね」と言った教員の意図がそこにあったのかどうかはわからないけれど。

今では「いろいろな考え方のフレームを身につけること」と「いろいろな出来事のなぜ(因果関係)とどうして(具体的な内容)を理解して自分の言葉で論理的に説明すること」が社会科の核ではないかと考えている。

 

もちろんそのためには、知識や技術も求められるのだけれども。

一度、完成してしまうとそれ以上の進歩はなくなってしまう。

試行錯誤の連続だ。

自分のしたことが良かったのかどうかを振り返るようになった。

だから今はいろいろな方の実践を見たり読んだりすることが楽しくなったと思う。

 

そうなったきっかけは、直接的には研修や書籍での出会いなんだけれど、それを確信するための楔のようなものを打ち込んでくれた教育実習での思い出には感謝しています。

「あなたたちはどちらのベテランになりますか?」

 

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まるで鉄の斧を投げ込まれて出てきた泉の精霊のような台詞。

 

もう10年近く前になる。

なんでか合格かいまいちわからない教員採用試験を経て(ペーパーテストはわりかしできていましたが、面接ではいけた感じがなかったのです)、4月に受けたはじめての初任研(初任者研修会という教員採用試験合格者が受けなければならない研修のことです)。

そこで講師(多分主席指導主事の方)が言われたのがタイトルの言葉でした。

正確には、こんな感じの内容です。

「皆さんからこのまま意欲的に学び続け精力的に働いて20年経てばベテランになります。一方で、何も向上せず働き続けて20年経ってもベテランになります。さて、皆さんはどちらのベテランになりますか?」

 

この言葉は割と心に残っていて、後輩と話すときや研修会の講師をするときに引用させていただいている。

ことの言葉を他人に伝えるということは、それをそのまま自分にも負けるということだ。

 

「僕は今も学んでいるのだろうか、向上し続けているのだろうか」

そう自問自答する。

 

仕事はできるようになった。

仕事量はかなり増えた。

本を読んだり研修会にも参加している(最近家庭が忙しくちょっと参加できていない)

知識量は増えた。

子どもや大人との関係づくりのスキルも身につけた。

 

でも本当にそれで向上しているのか。

年齢が上がれば、求められる仕事や立場は変わっていく。

これだけやったから大丈夫という基準もない。

正直、まだまだだとは思う。

 

そして知識や経験は錆び朽ちていくものだ。

学んだ内容はアップデートが必要だし、成功した経験だけに頼っているとどこかで行き詰まってしまうかもしれない(そして行き詰まった原因を他人や環境など自分以外のもののせいにしてしまうかもしれない)。

 

それは嫌だなぁと思うので、少しづつ学び続けるのだ。

学ぶことに終わりはない。

それは楽しくもあり苦しくもある。

 

もちろん全てを自分一人の知識や技量で賄えるわけではない。

キャパは少しづつ広がっていってる(と信じたい)が、出来ることには限界がある。

できることをできる範囲で頑張るだけなのだ。

僕たちはラーメンを食べているのか、情報を食べているのか

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Twitterをやっているといろんな情報が集まってきて楽しい。

読書もそうだ。

僕はいろいろな知識を得ることが好きな性分なのだ。

 

でも知識は知っているだけでは不十分で、実際に試してみないと自分のものにならない。

陽明学で言う知行合一だ。

 

(余談だけれど高校時代倫理にはハマっていたので、今でもアガペーとか弁証法とかプラグマティズムとか神は死んだとかコギト・エルゴ・スムとか無知の知とかを見るとテンションが上がってしまう)

 

もちろん熱意や行動だけでも空回りしてしまうかもしれない。

それがなければ動けないのだけれども。

でも考えてるだけより動いたやつの方が強い。

アル・ボーエンも言っていた、「考えるだけの天才より、行動する馬鹿が勝つ」と。

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世の中には情報が溢れかえっている。

ちょっと動けばいろいろな情報に触れることができる(もちろん玉石混交なのは否めないが)。

僕たちはそれを知って学んだ気になってしまう。

それでいいのだろうか。

本当に自分の知識に昇華するところまでできているのだろうか。

あるいは実践することで自分のものにできているのだろうか。

本当に学べているのだろうかという自分自身への問いかけだ。

 

ラーメン発見伝のハゲこと芹沢先生は鮎の繊細な出汁を舌で感じれない客にこう言っていた。

「あいつらはラーメンを食ってるんじゃない。」「情報を食ってるんだ!」

 

ツイッターランドには美味しそうに見える情報が沢山あって、どれも読むだけでわかった気になだてしまう。

でもそれだけじゃダメだよな。

消化して身につけないといけないよな。

という自分への戒めの話でした。

 

ADHDとASDの視点の違い

「大人のADHD(岩波明)」 に記載されていたものを忘備録的なものとして。

大人のADHD: もっとも身近な発達障害 (ちくま新書)

大人のADHD: もっとも身近な発達障害 (ちくま新書)

 

 

大人のADHDというタイトルから不注意面での困難さを予想していたけれど、それだけではなかった。

ASDはもちろんのこと、鬱や双極性障がい、統合失調症との重なりの中でADHDと見抜かれないが故の遠回りや別方面からのアプローチによる本人の苦しみがある。

でも正確な診断は難しいんだろうな。ADHDのエピソードとして紹介されていてもASDと思ってしまうものもいくつかあった。
そこに精神的な課題が絡んでくるのだし。

 

また学力的に問題のない子だとADHDを疑われずに、就職後あるいは管理職になるタイミングで壁にぶつかることが多いという内容にも納得した。

就職してからの些細なミスは些細なミスとして笑って許してもらえないことが大半だ。
学校と会社での求められるハードルの差は大きい。本当に大きい。

もうちょっと変化を緩やかにできないものなのか。

 

そして掲載されていた、ADHDASDの行動上の特徴の違いについてがすごく納得(京都大学の十一元三教授の示唆による)

①毎回忘れる、毎日目にして気づかない

日常生活や仕事において、毎日必ずしなければならないことは少なからずある。例えば、出社時に会社でタイムカードを押すことなどがあげられる。ADHDでは、タイムカードの押し忘れは、不注意に起因するものであるが、ASDではその行動が社会的に重要であると言う認識が欠けているために起こる。

 

②話し出すと止まらない

発達障害の患者では、周囲にかまわず一方的に自分の考えを主張したり、興味のある分野の話ばかりする人がしばしばみられる。ADHDにおいては、これは衝動性の表れであり、思いついた事を言わずにおられないことが原因である。一方、ASDでは、自分が自由勝手に話をしていいのかどうか、状況を認識できていないために起こることが多い。私の担当患者でも、外来の受診時に、自分の好きな80年代のアイドルのエピソードを延々と話し続けるASDの人がいた。

 

③話が飛ぶ

前項と関連するが、発達障害の人の話の内容は説明不足で、話題が飛ぶことがよくみられる。ADHDにおいては、やはり衝動性の結果起こるものであり、一足飛びに説明しようとするため話が飛躍しやすい。ASDにおいては、話をしている相手が理解しているかどうか考慮しようとしないので、奇異な内容が含まれやすい。

④順番や会話に割り込む

このような他の人に配慮しない行動パターンは、ADHDでもASDでもしばしば見られる。ADHDは内的な衝動性によって、がまんできなかったり、待てなかったりするためである。一方で、ASDにおいては、他者への意識の希薄さから、勝手な行動を取りやすい。つまり他人の存在を十分に認識していないということである。

 

⑤馴れ馴れしい

発達障害の患者は、対人関係に障害がある一方、他者と必要以上になれなれしかったり、「距離」が近かったりすることがある。ADHDの人は、元来ひとなつっこく、あどけない行動をとることが多い。(けれども、安定した関係を継続することは難しい)。ASDにおいては、社会的な距離間が分からずに、必要以上になれなれしく接することが起こる。

 

⑥懲りない

発達障害の人は、何度も同様にミスを繰り返すことが多い。ADHDにおいては、不注意の反映であるとともに、目の前の「快刺激」を優先しやすい結果である。ASDにおいては、自らの行動を静止する社会的な必要性を感じていないことが原因である。このような原因で、ASDの人によるストーカー行為が起こることがある。

当たり前のことだけれども、行動の表面的な特徴だけでなく、なぜそれが起きるのかをしっかり分析するのが大事なのだ。

 

あと同じ課題を抱えるモノ同士の心理教育(サイコエデュケーション)の必要性もチェック。

人が動くきっかけは知識や情報ではなく納得ですから。

優しさコンプレックス

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ちょうど高校生の頃くらいから、他人から「優しい」と言われることが嫌だった。

 

 

中学生くらいからだろうか。周りから浮かないようにビクビク怯えながら周りの目を気にするようになったのは。

高校でデビューを目論み、調子に乗りすぎて、部活やクラスで浮きかけてからはその傾向にますます拍車がかかった。

例えば周りの誰かが困っている。

忘れ物をしてソワソワしてるとか。

何かを落としたとか。

ビクビクしながら周囲にアンテナを張っている僕は他の大多数の人よりも早くそれに気づく。

結果としてそんな誰かに声をかけたり、手伝ったり、助けたりできる。

それを見た周りのヒトは僕のことを「優しい」と言う。

でも僕はその言葉に納得できない。

他人が言う僕の優しさは、心からのものではなく、周りから浮かないようにという邪な心から生まれ出ているものだ。

だから僕の優しさは「本当の優しさ」ではない。

僕のことを優しいなんて言わないでくれ。

ちょうど倫理の授業でカントの定言命法仮言命法について学んだこともそれを後押しした。

優しくもない自分が「優しい」と呼ばれることを恐れていた。

僕はこれを優しさコンプレックスと呼んでいる。

 

字面だけ見るとただのメンドクサイやつだ。

 

でも当時の僕は必死だった。

周りから浮かないように。

そして同時にいつもそんなことばかり考えている自分を忌避した。

僕はそんな自分のことが好きではなかった。

 

そんな僕は、自分を認めて欲しい思いを拗らせて、明るく輝くような女の子にアタックし、玉砕を繰り返していた。

今思えば、前向きで明るい(自分のコンプレックスを克服しているように思える)女の子に受け入れてもらうことで、自分のコンプレックスを一蹴しようとしていたのかもしれない。

周りから言われる「優しい」の声に怯えていた。

そんな自分が悪くないかもと思うきっかけになったのは、単純なことなんだけど、彼女ができたことだ。

ねじくれて自分をネガティブにしか見れない僕の「優しさコンプレックス」を受け入れて肯定してくれる人がいる。

その事実が自分の心を軽くしてくれた。

 

自分は良くない存在だとかいう感情を抜きにして、自分の能力や特性、行動をニュートラルに見れるようになってきた。

 

就活での自己分析を通して、そんな優しさコンプレックスを克服することができたように思う。

自分の優しさというか周りのことに注意を払って気づくチカラのことを「耳の大きなキリン」に例えてみたりもした。

「耳の大きなキリン」自分を動物に例えてみる - メガネくんのブログ

 

今ならあの頃の自分になんて言うのだろう。

僕が出会ってきた子たちと同じように「考え方や見方が変わればなんでも違って見える」とか「自分を卑下するのは簡単だけど、自分のことを肯定してくれている人に失礼」とか言うんだろうか。

それともこの優しさコンプレックスの時期の僕も、今の僕をつくっている大切なカケラの一つだから何も言わずにそっと見守るのだろうか。

 

今は自分の「優しさ」と呼ばれる部分はそれほど嫌いではない。

ある意味では武器だとすら思っている。

自分の立つ位置が変われば見方は随分と変わるものだ。

 

どうでもいいけど、この優しさコンプレックスはハチミツとクローバーの竹本くんのイメージだ。

自分探しの旅に出た彼が何かを見つけて帰ったように。

遠回りすることで得られる何かがあるのかもしれない。