ちょうど高校生の頃くらいから、他人から「優しい」と言われることが嫌だった。
中学生くらいからだろうか。周りから浮かないようにビクビク怯えながら周りの目を気にするようになったのは。
高校でデビューを目論み、調子に乗りすぎて、部活やクラスで浮きかけてからはその傾向にますます拍車がかかった。
例えば周りの誰かが困っている。
忘れ物をしてソワソワしてるとか。
何かを落としたとか。
ビクビクしながら周囲にアンテナを張っている僕は他の大多数の人よりも早くそれに気づく。
結果としてそんな誰かに声をかけたり、手伝ったり、助けたりできる。
それを見た周りのヒトは僕のことを「優しい」と言う。
でも僕はその言葉に納得できない。
他人が言う僕の優しさは、心からのものではなく、周りから浮かないようにという邪な心から生まれ出ているものだ。
だから僕の優しさは「本当の優しさ」ではない。
僕のことを優しいなんて言わないでくれ。
ちょうど倫理の授業でカントの定言命法と仮言命法について学んだこともそれを後押しした。
優しくもない自分が「優しい」と呼ばれることを恐れていた。
僕はこれを優しさコンプレックスと呼んでいる。
字面だけ見るとただのメンドクサイやつだ。
でも当時の僕は必死だった。
周りから浮かないように。
そして同時にいつもそんなことばかり考えている自分を忌避した。
僕はそんな自分のことが好きではなかった。
そんな僕は、自分を認めて欲しい思いを拗らせて、明るく輝くような女の子にアタックし、玉砕を繰り返していた。
今思えば、前向きで明るい(自分のコンプレックスを克服しているように思える)女の子に受け入れてもらうことで、自分のコンプレックスを一蹴しようとしていたのかもしれない。
周りから言われる「優しい」の声に怯えていた。
そんな自分が悪くないかもと思うきっかけになったのは、単純なことなんだけど、彼女ができたことだ。
ねじくれて自分をネガティブにしか見れない僕の「優しさコンプレックス」を受け入れて肯定してくれる人がいる。
その事実が自分の心を軽くしてくれた。
自分は良くない存在だとかいう感情を抜きにして、自分の能力や特性、行動をニュートラルに見れるようになってきた。
就活での自己分析を通して、そんな優しさコンプレックスを克服することができたように思う。
自分の優しさというか周りのことに注意を払って気づくチカラのことを「耳の大きなキリン」に例えてみたりもした。
「耳の大きなキリン」自分を動物に例えてみる - メガネくんのブログ
今ならあの頃の自分になんて言うのだろう。
僕が出会ってきた子たちと同じように「考え方や見方が変わればなんでも違って見える」とか「自分を卑下するのは簡単だけど、自分のことを肯定してくれている人に失礼」とか言うんだろうか。
それともこの優しさコンプレックスの時期の僕も、今の僕をつくっている大切なカケラの一つだから何も言わずにそっと見守るのだろうか。
今は自分の「優しさ」と呼ばれる部分はそれほど嫌いではない。
ある意味では武器だとすら思っている。
自分の立つ位置が変われば見方は随分と変わるものだ。
どうでもいいけど、この優しさコンプレックスはハチミツとクローバーの竹本くんのイメージだ。
自分探しの旅に出た彼が何かを見つけて帰ったように。
遠回りすることで得られる何かがあるのかもしれない。