メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

教師が教えるのは知識ではなく、考え方『プロ教師の流儀』

f:id:megane_kun_ha107:20191129093835j:image

『「プロ教師」の流儀(諏訪哲二)』を読んで考えたこと。その2。

 

僕たち教員は子どもたちに何ごとかを教えている。

それは知識であり、その知識が定着しているのかどうかは所謂、テストや試験で判定する。

 

でもある知識があるだけ、数学の公式や歴史の語句や人物名を知っているだけでは、あまり意味がない。

その知識がまとわまった体系になっていなくては本当に理解はできない。

あと僕個人としては、自分の教科社会で、子どもに伝えるのは知識ではなく考え方の枠組みだと思っている。

「出来事の原因と具体的な内容」「その時代の考え方」「なぜルールや法律が必要なのか」「モノの値段はどうやって決まっているのか」などなど

そんな新しい考え方の枠組みを受けてどうするかは子ども次第なのだが。

 

また知識を受け入れて「学ぶ」ということは、子どものそれまでの生活感覚や価値観が変革されなければならない。

本の中では、こう説明されている。

 たとえば、生徒たちの日常的な生活感覚(地面は不動であるといったような)や価値観を壊さなければ、太陽系や天体の運行の真実はわからないように、新しい「知」や認識を生徒が獲得していくということは、生徒の「知」や「認識」や「価値観」がどんどん変革されていくことなのである

知識が物が溜まるように入ってきて、本体が膨らんでいくわけではない。「教える」「学ぶ」が教師と生徒の価値観の争奪であるとはそういうことなのである。

 教師から提示されたものを、生徒は自己変革しつつ受け入れていく。ただし、生徒自身の心的・頭脳的システムが受け入れていくのである。教師の意図したとおりに受け入れていくわけではない。生徒たち一人ひとりが自ら選び取って学んでいく。

 

つまり学ぶということは、単に知識を得るだけでなく、知の体系を受け止め、それまでの自分の価値観や考え方を変えていくことなのだ。

でも、その前提として子どもは一人ひとり違うので、同じようには伝わらなくて当たり前なのだ。

 

そうなってくるとテストでそんな考え方の変革を測れるのかという問題や、知識を暗記するだけでなく学んだ内容に疑問を持ったり、調べたら、確認したりする力も大事なんじゃないかという考えが浮かんでくる。

 

最も大切にしたい考える力や柔軟性、好奇心、探究心をテストで測れないという矛盾。

でも、数値による客観性と公平性という観点から、今のところ日本では、受験先でも在籍校でもペーパーテスト以外は忌避される傾向にある。

 

それでも思うのが、社会に出て働く中で、仕事ができる力=学力や偏差値ではないだ思うのだ(学力や偏差値が高い方が知識量や学びの経験で多少有利になるかもしれないが)。

 

考える力を伸ばす、言うは易し、でも個人ではできても、全国規模でできるのか、さらにそれが入試にどれくらい反映されるのか…難しく、結局ヒトの能力のごく一部を切り取った学力で今日も試験の結果が決まるのだ。

 

僕たちは子どもにどんなふうになって欲しいのか。

もちろんどうなるかを決めるのは教員や親ではなく(強い影響は与えるだろうけれど)、本人の選択の結果だ。

ただ僕が目指して欲しいと思うのは、知識だけがある人ではなく、知識をもとに考えたり、足りない知識を調べたり、答えのない暗闇の中で悩みながら選択し、後悔するかもしれないけれど一歩ずつ進んでいく人なのだ。

理想の教師像とは何か「理想の教師像はあっても理想の教師はいない」『プロ教師の流儀』

f:id:megane_kun_ha107:20191128190714j:image

『「プロ教師」の流儀(諏訪哲二)』を読んで考えたこと。

 

理想の教師像とは何か考えてみる。

 

知識が豊富でなんでも知っていて、

教え方が上手く、

引き出しが多く、

自ら率先して動いて、

子どものことを第一に考えて、

子どもを引っ張るリーダーシップに溢れて、

子どもの心に寄り添って、

子どものことをなんでもわかっていて、

熱意に溢れ、

優しさに溢れ、

思いやりの心を持ち、

厳しさもあり、

いつも子どものことを考えていて、

プライベートも充実していて、

誰とでも上手に関係を作れて、

仕事が早く、

話が上手くて、

スポーツもできて、

挙げていけばキリがないけど、挙げていくほどハードルが高くなり、現実にいる教員Aさんや教員Bさんの実像と乖離していく。

 

そもそも挙げた中には矛盾するものもあって、

 

子どものことをわかったり寄り添ったりするのに、やりたくない子どもを無理矢理引っ張るリーダーシップがあるというのはおかしくなるし、

仕事が早かったり、勉強ができたり、スポーツができる人は、できない人の気持ちを本当に理解して、実感して寄り添うことができないと思うし、

いつも子どものことを考えるのと、プライベートが充実するよう時間を確保すること(学校で熱心な先生、いい先生が、付き合ってみていい彼氏彼女かどうかはわからないし、家庭でもいい夫や妻であるとは限らない)と、引き出しを増やすために書籍や研修会、学習会に参加するために時間を使うことはきっと両立しない。

 

そして本の中にあったように、「子どものことをなんでもわかっていると思うこと」はある意味危険なことだ。

 

僕は、生まれてから30年以上を過ごしてきた父母や妹のことだってわからないし(うちの親のことはよくわからないということは理解している)、出会って10年以上になる妻のことも本当にわかっているのかよくわからない(分かり合えるように努力はしている)、自分の子どものこともそうだし、つまりは身近な人のこともよくわからないことが多いということだ。

「その人はこうだ」とわかった気になったって、それは家庭や学校や職場でのその人の一面を見てそう思ってるだけで、他での姿や本当の内面なんでどうだかわからないものだ。

なんだかまた話がソクラテス的な展開になってきた。

わかった気でいるといつか大きなしっぺ返しにあうかもしれない。

 

筆者は理想の教師像なんでないし、そんな観念的なものは、現実にいる教員Aさんや教員Bさんの実像とは合わないと言う。

僕も同意見だ。

それになんでもできる人をみんなが気にいる訳じゃない。

その合わない子になんでもできる人はどうすると言うのだろうか。

 

もちろん、現実に子どもとの関係づくりが上手な人、熱心な人(熱心さが必ずしも良い結果をもたらす訳ではない)、知識や話題が豊富な人、仕事に意欲的でない人、教えるのが下手な人、スポーツが得意な人はいる。

でも、それらがいい教員になるかどうかは、わからない。

僕たちは工業製品ではなく、子どもというナマモノを相手にしている。

子どもは言うまでもなく様々だ。

スポーツが下手な先生がいるのを知って安心する子もいるだろう。

教えるのが下手でも、雑談が面白い先生を好きになる子もいるだろう。

熱心に関わる人が好きな子もいれば、放っておいてもらう方がいい子もいる。

子どもは様々なんだから、それだけ理想の教師像の正解がある。

なるべく多くの子どもと関係づくりができるよう引き出しを増やすことはできるけど、限度はあるし、誰とでもあうようにはならない。

理想の教師像を目指して努力する意味はあるけれど、なんでもできる理想の教師像の体現者、スーパーマン教員にはなれない。

 

理想の教師像は幻想なのだ。

いいとされることを切り取って集めたって、それがいいとは限らないし、ある子にとっていいことが、別の子にとってもいいこととは限らない。

ある環境である子どもにハマる教師はいても、その人が誰とでもどんな子どもとでもハマるわけではない。

 

確かに仕事に熱心でない人や仕事の効率が悪い人もいるだろう。

でもその人が誰とも合わなかった子にハマるかもしれない。

そんな多様性も教育の魅力の一つなのかもしれない。

 

それを無視して、効率や性能ばかりを追い求めて突き詰めていくと、大多数の教員は理想の教師ではないので必要なくなり、学習指導力のある一部の教員によるオンデマンド方の授業が主流になるだろう(予備校教師にわかりやすい授業で勝てる学校教員はどれほどいるのか、またわかりやすいではなく子どもが主体的に学び、内容を深く理解できるように持っていくことができる教員がどれほどいるのか)。

でも画一的に進めることは効率的ではあっても、多様性を失ってしまう。

 

多様さも一つの魅力だと思うんですけどね。

まぁ自分の指導が1番だと思っていると、自分が理想の教員で、周りの人が皆出来の悪い教員に見えてくる罠があるのですが…

 

理想の教師像についての話はこの辺で。

公園での子どもとの関わり方をみて「この子は将来どうなるんだろう」

f:id:megane_kun_ha107:20191117221212j:image

近所の公園に子どもを連れて行ったときの話。

 

アスレチックのような遊具で遊んでいる子どもを見ていると、ある親が登場。

父親曰く、

「うちの子はもうこのトンネルを向かいから来る子が通るのを3回も待っていた」

「だから先に行かせてくれないか」

これをうちの3歳児の娘に素の表情で訴える。

当然固まる娘。

仕方がないので下がらせる。

こちらにも娘にも目を合わせずに「ごめんね」「ごめんね」を連呼しながらトンネルを進む我が子の写真を撮る父と母。

唖然としていたけれど、譲ってあげることができたことを良かったなと伝える。

 

まぁ別にいいんだけれども。

 

がむしゃらに進んで膠着状態になるのも、喧嘩になるのも、他の子がどんどん来て進めないのも、こんな風に他人の親から言われることも、すべて経験だと僕は思っている。

そんな経験を重ねていく中で考えて自分なりのスタイルを身につけていけばいい。

うちの娘の人生で1番のキーパーソンは、当然ながら娘だ。考えるのも決めるのも責任を求められるのも娘なのだ。

娘の人生なんだから、自分で悩んで考えて相談して、動いて、失敗して、助けを求めて、いっぱい経験して、考えて、考えて、決めていけばいいと思っている。

 

全く放置したりする訳ではなく、こうした方がいいよと提示くらいはするけれど。

まぁうちの頑固な(意思のはっきりしている)娘はなかなか言うことを聞いてくれないのだけれども。

 

いわゆる過保護というのは、きっと子どもを思う気持ちが出発点なんだろう。

僕のやり方も度を過ぎれば厳しすぎる指導や愛のない指導になってしまうんだろう。

 

でもテーマパークのショーで、子どもが「見たい見たい」と連呼するからと言って、スタッフに席がないか交渉したり、肩車をした状態でグイグイ前に詰めるのは違うと思うのだ。

 

僕は子供と関わる仕事をしていて、その分、子ども(というか人間誰しも)について考えたり、得た知識や経験からくる引き出しがあるからそんなことを考えるんだろう。

 

でも、今の子どもの欲求全てを満たしたり、良かれと思ってなんでもやってあげたり、頭ごなしに叱りつけたりしていうことを聞かせることが、その子の長い人生において本当にいいことなのかなぁと考えてしまう(それは学校という現場でもそうだ)。

「地図をもって支援しよう」 - メガネくんのブログにも書いたけれど、そのときの子どもに寄り添うことも大事だけれど、長い目で見て子どものためを考えるのも必要なんじゃないか。

うーん、あの親に言われてトンネルを通った子はこの先どうなるのかなぁ。

 

話は変わるけど、昔研究授業をした時に言われた、子どもたちが自由に発言しすぎている感があるからもっと統制しないとと言われたこともあった。

統制してコントロールすること、庇護下においてコントロールすること、それって誰のためなんだろうか。

長い目で見て子どものためになることってなんだろうか。

できることからコツコツと「とりあえず足許にあるものから洗濯しよつ」

f:id:megane_kun_ha107:20191117231737j:image

仕事や家庭のこと、人間関係なんかでいっぱいいっぱいになることってありますよね。

 

やるべきこと、やらないといけないことが多すぎて何からやればいいかわからなくなる。

自分のキャパをオーバーして、「もう嫌だッ」となる。

 

そんなときに、フルーツバスケットの言葉を思い出します。

 

たとえば透君が山のような それはもう足許まで溜って身動きできないほどの洗濯物に囲まれてしまったとしましょう?
しかも洗濯機がなくて 一枚一枚手で洗わなきゃいけない
透君は途方に暮れる
本当に全部洗濯できるかな キレイにできるかな
満足のいく結果を自分はちゃんと出せるのかなって
考える度 不安になってくる
けれど時間は刻々と過ぎていく
さて透君はどうするべきか
…とりあえず足許にあるものから 
洗濯してみるといいかもね 
先を気にするのも大切だけど先ばかり見てると
足許の洗濯物に足がからまって転んじゃうでしょう?
『今』や『今日』何ができるか考えるのも大切
そうやって一枚一枚洗っていけば 
なんだか あっけないくらいにアッサリと
お天道さまがのぞいたりするものだから
不安はそれでもこみあげてきたりするけど
そういう時は ちょっと一休みするんだよ
本を読んだり TVを観たり みんなで素麺食べたりしてね

(草摩紫呉)

 

やりたくない気持ちになってしまうこともあります。

 

でもやらないといけないことなら、できることからコツコツやろう。

千里の道も一歩からと言うけれど、チリも積もれば山となる。

 

少しずつ続けたことを振り返ってみると、意外と大きなものになっていることもあります。

積み重ねってすごく大事。

このブログも気づけば記事の数が増えています(1000記事書いて一人前らしいのでまだまだなんだけれども)

 

そう思いながら、今日も仕事と家事に追われています笑

子どもを寝かしつけた後で、片付けと食器洗いと洗濯と洗濯物たたみと保育園の連絡帳の全てが残っていて絶望するときに、この言葉をよく思い出します。

 

まぁ「明日できることは明日しよう」という言葉もありますし、諦めて寝てしまうのも1つの方法です笑

 

世の中には一つの正解があるわけじゃないと思うのですが、多様な考え方や正解がある方が、生きていく上でゆとりになる、そう思います。

 

焦っても、できなくても、逃げ出しても、それはそれ、コツコツコツコツでいいんですよね。

言いたいことも言えないこんな世の中じゃ POISON

f:id:megane_kun_ha107:20191117220541j:image

 

先日の会議で、転任3年目のベテランの方が会議で「ここに来てから、会議で思ったことを言えない空気がある。言いたいことが言えない。」と発言し、場が凍りついた。

その瞬間、脳内に流れたのは懐かしき青春時代の反町隆史主演のドラマGTOの名曲だった。

「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ〜ぁ〜POISON〜ん〜」

"POISON?言いたい事も言えないこんな世の中は?/If you love me,don’t for"

 

 

後で若手の教員とあの発言はPOISONだったなと確認した笑

 

そんなことがあってから、ずっと、「言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」というお題でブログを書こうと思っていたのだけれども、タイムリーなことにそれに関連するツイートを発見した。

 

 

そう、言いたいことも言えないのはこんな世の中(環境や空気、雰囲気)のせいにすることもできるけど、究極のところ言いたいことを言うか言わないかは自分が選択して決めていることだ。

 

それにあの歌詞には続きがある。

 

言いたいことも言えない

こんな世の中じゃ POISON

俺は俺をだます

ことなく生きていく OH OH

まっすぐ向きあう現実(いま)に

誇りを持つために

戦うことも必要なのさ

 

そう、誇りを持つためには戦うことも必要なのだ。

まぁ言いたいことが本当に言えない人は、会議の場で「言いたいことが言えない雰囲気がある」とは言えないんだと思うが…笑

 

言いたいことが言えない苦しさはわかる。

特に若手や新参者だと尚更だ。

雰囲気や早く終わって欲しいなんていう気持ちからなかなか発言できないときもあるけど、言わないといけないと思うことは言わないと後悔するはず。

言いたいことも言えないこんな世の中だからこそ、言わないといけないとことを言う勇気を持たないといけないのかもしれない。

 

なんか話がアドラー心理学っぽくなってきましたが、今日はこの辺で。

 

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

 

 

 

加齢とともに変わる視点「娘はまだ3歳だけれど」

f:id:megane_kun_ha107:20191124134414j:image

先日大学時代の友人の結婚式に参列した。

いつも思うのが、同じ結婚式でもその時の立場によって見る視点が変わってくる。

 

初めて結婚式に行ったのは大学生成り立ての頃の従兄の結婚式。フワフワしていてあんまりよく覚えていない笑

 

大学時代で1番早く結婚したツレの結婚式では、まだ自分は二十代前半、結婚も何も考えていない状態だったので、「いつか自分もこんな感じで結婚式をするのかなぁ」とまるで夢のように想像していた。

 

時はたち、自分がプロポーズを終え、式場探しやプランナーさんといろいろと段取りを考えている頃にも、友人の結婚式が多くあった。

丁度、料理や生花、引き出物、ウェルカムボードなどを考えている最中ど、「あれいいなぁこれいいなぁ」といろいろなアイデアに目がいった。

 

自分の結婚式は感謝の一言。

妻、親親戚、友人、職場の先輩などなどへありがとうございますを繰り返してばかりだった。

 

自分の結婚式を終え、他人の結婚式に参加するようになると、プランナーさんと激しい攻防戦が繰り広げられた、生花や料理、引き出物のランクなどなどの記憶が蘇り、出てくる料理を見て、「あーこれはお金かけてるなぁ」などとツレとこそこそ話あった。裏側がわかる立場になったのだ。

 

さらに時は経ち、自分に娘が生まれる。

その先日の結婚式の時に友人と話したのが、まだ娘が3歳かそこらなのに、もう新婦の父親の気持ちになってしまっている。新婦父親の気持ちになって泣いているツレもいた笑

「かわいいかわいい娘をよそにやるのは嫌だなぁ」まだ小学校にも上がっていないのに、早くもそんな話に花が咲く。

まぁ娘の人生は娘が決めることだけれども。

妻の義父母と初めて会ったときの緊張も思い出す。同業の義父との話は、まるで教員採用試験の面接だったなぁ笑

 

披露宴でバカ騒ぎしている若い子たちを見て、「自分も昔はあぁだったなぁ」と思い出す。

 

立場が変われば、行動や考え方が変わっていくもの。

昔は子どもでバカなことをしていた自分、

結婚に夢や憧れを抱いていた自分(今も楽しんでますが!!)、

結婚式を挙げた自分、

娘ができた自分、

もう通り過ぎてしまった自分を忘れがちだけれども、そんな自分を忘れてはいけないなぁた改めて実感した結婚式だった。

 

知らないことがあるから、次に進むことができる

f:id:megane_kun_ha107:20191117231551j:image

学校にいると、「知らないから」「分からないから」「できないから」そこで足を止めてしまう子どもによく出会う。

確かに学校という場所では、1つの正解があり、それから遠ざかれば光は当たりにくくなる。

 

でも、そこで立ち止まらずに考えてみて欲しい。

「知らないこと」「わからないこと」「できないこと」が、実は人間の歩みの原動力となることを。

「私は知らないということを知っている」というのは古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉だ。「無知の知」とも言われる。

高校時代の倫理で出会ったこの言葉、その持つ力は計り知れない。

 

僕もそのけいけんがあるのだが、実は、なんでも学べば学ぶほど、自分が知っているというのは思い込みで、いかに自分は知らなかったのかということに気づかされる。

 

でもそこで諦めるんじゃなくて、気づかされるのだ、「知らないこと」に出会うことが、実は知りたいという気持ちの原動力になっていることに。

未知ということは、実は宝物のいっぱい詰まった箱かもしれない。

 

分からないから、分かるように、理解できるように学ぶのだ。

 

できないから、チャレンジするんだ。

できるようになりたいから何度も取り組むんだ。

 

もちろんガムシャラになんでもやれという訳ではない。

できないこと、わからないことになんでも挑戦しろというのではない。

 

自分の得意不得意や好き嫌いを考慮すればいいし、分からないことやできないことから別に逃げたっていい。

人間、なにもかもができる訳ではない。

 

自分の挑戦するフィールドは自分で選べばいい。

 

でも、知らないということ、できないこと全てにあきらめないで欲しい。

「知らない」ということは、実は、「なんでも学べる可能性に満ち溢れている」ということだ。

「分からない」「できない」ということは、「分かったときやできたときの快感は人一倍だ」ということだ。

そして、分からない、できない人の気持ちに共感して寄り添えるということだ。

できる人はできない人の気持ちに気づくまでに時間がかかるし、本当の意味で共感はできない。

 

「知らなくてもいいんだ」

「知らないことが次の何かにつながるんだ」

そう考えると、ちょっと気持ちが軽くなりませんか。