『「プロ教師」の流儀(諏訪哲二)』を読んで考えたこと。
「プロ教師」の流儀 - キレイゴトぬきの教育入門 (中公新書ラクレ)
- 作者: 諏訪哲二
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2014/08/08
- メディア: 新書
- この商品を含むブログ (1件) を見る
理想の教師像とは何か考えてみる。
知識が豊富でなんでも知っていて、
教え方が上手く、
引き出しが多く、
自ら率先して動いて、
子どものことを第一に考えて、
子どもを引っ張るリーダーシップに溢れて、
子どもの心に寄り添って、
子どものことをなんでもわかっていて、
熱意に溢れ、
優しさに溢れ、
思いやりの心を持ち、
厳しさもあり、
いつも子どものことを考えていて、
プライベートも充実していて、
誰とでも上手に関係を作れて、
仕事が早く、
話が上手くて、
スポーツもできて、
…
挙げていけばキリがないけど、挙げていくほどハードルが高くなり、現実にいる教員Aさんや教員Bさんの実像と乖離していく。
そもそも挙げた中には矛盾するものもあって、
子どものことをわかったり寄り添ったりするのに、やりたくない子どもを無理矢理引っ張るリーダーシップがあるというのはおかしくなるし、
仕事が早かったり、勉強ができたり、スポーツができる人は、できない人の気持ちを本当に理解して、実感して寄り添うことができないと思うし、
いつも子どものことを考えるのと、プライベートが充実するよう時間を確保すること(学校で熱心な先生、いい先生が、付き合ってみていい彼氏彼女かどうかはわからないし、家庭でもいい夫や妻であるとは限らない)と、引き出しを増やすために書籍や研修会、学習会に参加するために時間を使うことはきっと両立しない。
そして本の中にあったように、「子どものことをなんでもわかっていると思うこと」はある意味危険なことだ。
僕は、生まれてから30年以上を過ごしてきた父母や妹のことだってわからないし(うちの親のことはよくわからないということは理解している)、出会って10年以上になる妻のことも本当にわかっているのかよくわからない(分かり合えるように努力はしている)、自分の子どものこともそうだし、つまりは身近な人のこともよくわからないことが多いということだ。
「その人はこうだ」とわかった気になったって、それは家庭や学校や職場でのその人の一面を見てそう思ってるだけで、他での姿や本当の内面なんでどうだかわからないものだ。
なんだかまた話がソクラテス的な展開になってきた。
わかった気でいるといつか大きなしっぺ返しにあうかもしれない。
筆者は理想の教師像なんでないし、そんな観念的なものは、現実にいる教員Aさんや教員Bさんの実像とは合わないと言う。
僕も同意見だ。
それになんでもできる人をみんなが気にいる訳じゃない。
その合わない子になんでもできる人はどうすると言うのだろうか。
もちろん、現実に子どもとの関係づくりが上手な人、熱心な人(熱心さが必ずしも良い結果をもたらす訳ではない)、知識や話題が豊富な人、仕事に意欲的でない人、教えるのが下手な人、スポーツが得意な人はいる。
でも、それらがいい教員になるかどうかは、わからない。
僕たちは工業製品ではなく、子どもというナマモノを相手にしている。
子どもは言うまでもなく様々だ。
スポーツが下手な先生がいるのを知って安心する子もいるだろう。
教えるのが下手でも、雑談が面白い先生を好きになる子もいるだろう。
熱心に関わる人が好きな子もいれば、放っておいてもらう方がいい子もいる。
子どもは様々なんだから、それだけ理想の教師像の正解がある。
なるべく多くの子どもと関係づくりができるよう引き出しを増やすことはできるけど、限度はあるし、誰とでもあうようにはならない。
理想の教師像を目指して努力する意味はあるけれど、なんでもできる理想の教師像の体現者、スーパーマン教員にはなれない。
理想の教師像は幻想なのだ。
いいとされることを切り取って集めたって、それがいいとは限らないし、ある子にとっていいことが、別の子にとってもいいこととは限らない。
ある環境である子どもにハマる教師はいても、その人が誰とでもどんな子どもとでもハマるわけではない。
確かに仕事に熱心でない人や仕事の効率が悪い人もいるだろう。
でもその人が誰とも合わなかった子にハマるかもしれない。
そんな多様性も教育の魅力の一つなのかもしれない。
それを無視して、効率や性能ばかりを追い求めて突き詰めていくと、大多数の教員は理想の教師ではないので必要なくなり、学習指導力のある一部の教員によるオンデマンド方の授業が主流になるだろう(予備校教師にわかりやすい授業で勝てる学校教員はどれほどいるのか、またわかりやすいではなく子どもが主体的に学び、内容を深く理解できるように持っていくことができる教員がどれほどいるのか)。
でも画一的に進めることは効率的ではあっても、多様性を失ってしまう。
多様さも一つの魅力だと思うんですけどね。
まぁ自分の指導が1番だと思っていると、自分が理想の教員で、周りの人が皆出来の悪い教員に見えてくる罠があるのですが…
理想の教師像についての話はこの辺で。