学校にいると、「知らないから」「分からないから」「できないから」そこで足を止めてしまう子どもによく出会う。
確かに学校という場所では、1つの正解があり、それから遠ざかれば光は当たりにくくなる。
でも、そこで立ち止まらずに考えてみて欲しい。
「知らないこと」「わからないこと」「できないこと」が、実は人間の歩みの原動力となることを。
「私は知らないということを知っている」というのは古代ギリシャの哲学者ソクラテスの言葉だ。「無知の知」とも言われる。
高校時代の倫理で出会ったこの言葉、その持つ力は計り知れない。
僕もそのけいけんがあるのだが、実は、なんでも学べば学ぶほど、自分が知っているというのは思い込みで、いかに自分は知らなかったのかということに気づかされる。
でもそこで諦めるんじゃなくて、気づかされるのだ、「知らないこと」に出会うことが、実は知りたいという気持ちの原動力になっていることに。
未知ということは、実は宝物のいっぱい詰まった箱かもしれない。
分からないから、分かるように、理解できるように学ぶのだ。
できないから、チャレンジするんだ。
できるようになりたいから何度も取り組むんだ。
もちろんガムシャラになんでもやれという訳ではない。
できないこと、わからないことになんでも挑戦しろというのではない。
自分の得意不得意や好き嫌いを考慮すればいいし、分からないことやできないことから別に逃げたっていい。
人間、なにもかもができる訳ではない。
自分の挑戦するフィールドは自分で選べばいい。
でも、知らないということ、できないこと全てにあきらめないで欲しい。
「知らない」ということは、実は、「なんでも学べる可能性に満ち溢れている」ということだ。
「分からない」「できない」ということは、「分かったときやできたときの快感は人一倍だ」ということだ。
そして、分からない、できない人の気持ちに共感して寄り添えるということだ。
できる人はできない人の気持ちに気づくまでに時間がかかるし、本当の意味で共感はできない。
「知らなくてもいいんだ」
「知らないことが次の何かにつながるんだ」
そう考えると、ちょっと気持ちが軽くなりませんか。