近所の公園に子どもを連れて行ったときの話。
アスレチックのような遊具で遊んでいる子どもを見ていると、ある親が登場。
父親曰く、
「うちの子はもうこのトンネルを向かいから来る子が通るのを3回も待っていた」
「だから先に行かせてくれないか」
これをうちの3歳児の娘に素の表情で訴える。
当然固まる娘。
仕方がないので下がらせる。
こちらにも娘にも目を合わせずに「ごめんね」「ごめんね」を連呼しながらトンネルを進む我が子の写真を撮る父と母。
唖然としていたけれど、譲ってあげることができたことを良かったなと伝える。
まぁ別にいいんだけれども。
がむしゃらに進んで膠着状態になるのも、喧嘩になるのも、他の子がどんどん来て進めないのも、こんな風に他人の親から言われることも、すべて経験だと僕は思っている。
そんな経験を重ねていく中で考えて自分なりのスタイルを身につけていけばいい。
うちの娘の人生で1番のキーパーソンは、当然ながら娘だ。考えるのも決めるのも責任を求められるのも娘なのだ。
娘の人生なんだから、自分で悩んで考えて相談して、動いて、失敗して、助けを求めて、いっぱい経験して、考えて、考えて、決めていけばいいと思っている。
全く放置したりする訳ではなく、こうした方がいいよと提示くらいはするけれど。
まぁうちの頑固な(意思のはっきりしている)娘はなかなか言うことを聞いてくれないのだけれども。
いわゆる過保護というのは、きっと子どもを思う気持ちが出発点なんだろう。
僕のやり方も度を過ぎれば厳しすぎる指導や愛のない指導になってしまうんだろう。
でもテーマパークのショーで、子どもが「見たい見たい」と連呼するからと言って、スタッフに席がないか交渉したり、肩車をした状態でグイグイ前に詰めるのは違うと思うのだ。
僕は子供と関わる仕事をしていて、その分、子ども(というか人間誰しも)について考えたり、得た知識や経験からくる引き出しがあるからそんなことを考えるんだろう。
でも、今の子どもの欲求全てを満たしたり、良かれと思ってなんでもやってあげたり、頭ごなしに叱りつけたりしていうことを聞かせることが、その子の長い人生において本当にいいことなのかなぁと考えてしまう(それは学校という現場でもそうだ)。
「地図をもって支援しよう」 - メガネくんのブログにも書いたけれど、そのときの子どもに寄り添うことも大事だけれど、長い目で見て子どものためを考えるのも必要なんじゃないか。
うーん、あの親に言われてトンネルを通った子はこの先どうなるのかなぁ。
話は変わるけど、昔研究授業をした時に言われた、子どもたちが自由に発言しすぎている感があるからもっと統制しないとと言われたこともあった。
統制してコントロールすること、庇護下においてコントロールすること、それって誰のためなんだろうか。
長い目で見て子どものためになることってなんだろうか。