メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

教師が教えるのは知識ではなく、考え方『プロ教師の流儀』

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『「プロ教師」の流儀(諏訪哲二)』を読んで考えたこと。その2。

 

僕たち教員は子どもたちに何ごとかを教えている。

それは知識であり、その知識が定着しているのかどうかは所謂、テストや試験で判定する。

 

でもある知識があるだけ、数学の公式や歴史の語句や人物名を知っているだけでは、あまり意味がない。

その知識がまとわまった体系になっていなくては本当に理解はできない。

あと僕個人としては、自分の教科社会で、子どもに伝えるのは知識ではなく考え方の枠組みだと思っている。

「出来事の原因と具体的な内容」「その時代の考え方」「なぜルールや法律が必要なのか」「モノの値段はどうやって決まっているのか」などなど

そんな新しい考え方の枠組みを受けてどうするかは子ども次第なのだが。

 

また知識を受け入れて「学ぶ」ということは、子どものそれまでの生活感覚や価値観が変革されなければならない。

本の中では、こう説明されている。

 たとえば、生徒たちの日常的な生活感覚(地面は不動であるといったような)や価値観を壊さなければ、太陽系や天体の運行の真実はわからないように、新しい「知」や認識を生徒が獲得していくということは、生徒の「知」や「認識」や「価値観」がどんどん変革されていくことなのである

知識が物が溜まるように入ってきて、本体が膨らんでいくわけではない。「教える」「学ぶ」が教師と生徒の価値観の争奪であるとはそういうことなのである。

 教師から提示されたものを、生徒は自己変革しつつ受け入れていく。ただし、生徒自身の心的・頭脳的システムが受け入れていくのである。教師の意図したとおりに受け入れていくわけではない。生徒たち一人ひとりが自ら選び取って学んでいく。

 

つまり学ぶということは、単に知識を得るだけでなく、知の体系を受け止め、それまでの自分の価値観や考え方を変えていくことなのだ。

でも、その前提として子どもは一人ひとり違うので、同じようには伝わらなくて当たり前なのだ。

 

そうなってくるとテストでそんな考え方の変革を測れるのかという問題や、知識を暗記するだけでなく学んだ内容に疑問を持ったり、調べたら、確認したりする力も大事なんじゃないかという考えが浮かんでくる。

 

最も大切にしたい考える力や柔軟性、好奇心、探究心をテストで測れないという矛盾。

でも、数値による客観性と公平性という観点から、今のところ日本では、受験先でも在籍校でもペーパーテスト以外は忌避される傾向にある。

 

それでも思うのが、社会に出て働く中で、仕事ができる力=学力や偏差値ではないだ思うのだ(学力や偏差値が高い方が知識量や学びの経験で多少有利になるかもしれないが)。

 

考える力を伸ばす、言うは易し、でも個人ではできても、全国規模でできるのか、さらにそれが入試にどれくらい反映されるのか…難しく、結局ヒトの能力のごく一部を切り取った学力で今日も試験の結果が決まるのだ。

 

僕たちは子どもにどんなふうになって欲しいのか。

もちろんどうなるかを決めるのは教員や親ではなく(強い影響は与えるだろうけれど)、本人の選択の結果だ。

ただ僕が目指して欲しいと思うのは、知識だけがある人ではなく、知識をもとに考えたり、足りない知識を調べたり、答えのない暗闇の中で悩みながら選択し、後悔するかもしれないけれど一歩ずつ進んでいく人なのだ。