本の感想。
『ルポ教育虐待 毒親と追いつめられる子どもたち(おおたとしまさ)」という本を読んだ。
教育虐待、毒親、教室マルトリートメント…教員という仕事柄、そんな本を読む機会は多い。
僕自身、体罰が当たり前の昭和な体育会系の部活を経験してきた。家庭内では強い父親に面と向かって反抗はせず、小学校教員だった母親から一定の厳しさを受けて育ってきた。
支援学校という場で働く僕は、滅多に怒るようなことはない。怒りに任せて叱ったり、脅したりしても、それで変わるのは一時的なものだし、むしろ後で大きなしっぺ返しを喰らう。
それよりもどうやったら目の前の子たちがこちらが気づいて欲しいことに気づくのか、自分で自分をコントロールする力が育つのか、そのために自分がどんな関わりや工夫ができるのかを考える方がいいじゃん。そんな風に考える。
子どもも周りの大人も含めて、みんな一人の人間なのだから、誰もが自分で決めた範囲でしか動こうとはしないものだし、その人のことを決めるのは最終的にはその人なのだ。
自分にできる範囲と、その人が動くしかない範囲とがあるのだ。
もちろんそんな風に考えるにはいろんな経験や出会い、失敗を積んできたからだ。
それが家に帰り、わが子となるとまた話が変わってくる。
「子どものために…」という危険な囁きが聞こえてくる。
仕事で滅多に怒らないのに(もしかしたらそのことがストレスになっているのかもしれないけれど…)
約束を守らない、
しないといけないことをしない、
やりたいことだけをするわが子に対して
イライラしてしまい、怒りをぶつけてしまう。
その度に反省する。
仕事の技を生かせないかと考える。
より良いやり方や工夫がないか考える。
うちの子にあった方法はなんだろうか…。
でも、この本を読んでいて思う。
それは「子どものため」という大義名分で隠したナニカではないか。
「自分がわが子をコントロールしたい、思うようにさせたい」そして「子どもが褒められることが、イコール自分の価値になる」そんな欲望が隠れているのではないかと。
そもそも人生に絶対的な「成功」なんてものはない。いいときと悪いときがあるだけだ。
どんな人生が「充実していて豊か」なのかは、それぞれのひとが決めること。そのためには、ほかの誰でもない、自分自身のモノサシが必要だ。それがそのひとにとっての「人生の羅針盤」。
それさえあれば、長い人生という「航海」のなかでたとえ逆風にさらされる日があっても、 1日 1ミリしか前に進めなくても、幸せを追求しつづけられる。どこかにたどり着くことが目的ではなく、自分自身の「人生の羅針盤」に従う「航海」のプロセスそのものが幸せなのだと気づくことができる。
どんなにいい大学に行こうとも、富や名声を得たとしても、それらの価値が自分ではない誰かに決められているものである限り、それだけでは、自分自身で人生の価値を実感することは難しい。それでは人生の充実感や豊かさを味わうことも難しいのではないか。私はそう思う。
生まれてきたときは「元気に育てくれ」とだけ願っていた。
そんな願いはどんどん膨れ上がっていく。
子どものための欲の裏には、親としての欲も隠れている。
でも子どもは適切なデータを入力すれば、それにあったものが出力されるような存在ではない。
個々にブレというか違いがあるし、そもそも入力したつもりのデータが入っていないこともある。
いや、データを入力するという考え方自体が間違いだ。
僕自身も含めて、不合理で、理不尽で、間違いを繰り返す。
それが人間なのだから。
僕には僕の「人生の羅針盤」がある。
それは自信を持って言える。
いつからその羅針盤があるのかはわからないし。
それにその羅針盤は僕の両親が期待したものとは違うのかもしれない。
当たり前だ、自分の羅針盤は自分の経験や考えによって形づくられるものなのだから。
僕自身の子どもたちへの想いを捨てる訳ではない。
でも、その想いと、受け取る子どもたちが形づくっていくものは、また違う別のものだ。
期待しないわけではない。
見放すのでもない。
でもうちの子の人生はうちの子のものなのだ。
親の僕はもちろん、うちの子自体の思い通りにもならないものだ。
そんなうちの子が比較的、楽に、楽しく過ごせる日や時間が増えるよう。
受け取られない想いを、期待を抑えて伝えていくしかできないのだ。
子どもへ膨らむ期待を、そんな風に抑えることができるのかはわからないけれど。
そんなことを考えると、子どものいろんなことを許せるようになりたいなと思う。