メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

自由と規律、あるいは制限

f:id:megane_kun_ha107:20200207112352j:image

自由とはなんだろうかという考察。

 

自由だからなんでもできるのだろうか。

何をやっても自由という言葉は僕に北斗の拳の世紀末の世界を連想させる。

「ヒャッハー汚物は消毒だー!」

「生きていられるだけありがたいと思えムシケラども!!」

「ヒャッホー!!」「水だー!!」

弱肉強食の世界で弱者をいたぶる彼ら悪役は一見自由なように思える。

でも汚物を消毒する彼も、聖帝サウザーの組織の末端でしかない。

強キャラの威を借りて、自分より弱い立場のやつにしか威張れないのだ。

上官の意思一つで消えてしまうはかない存在。

それが自由を謳歌しているように見える彼らの姿だ。

力こそ全てという社会には、ルールがなくて自由なように見えて、実は、①やりたいようにできるのは自分より立場や力が弱い奴にだけ、②自分より立場や力が強い奴には逆らえないしある意味では命の天秤を握られているというルール、あるいは制限があるのだ。

 

さらに言えば力こそ全ての世界であっても、最も強いはずのラオウやカイオウですら自分の望むものを全て手にできるわけではない。

自身が愛した女、ユリアも自分になびかず、憧れた長兄トキもケンシロウのために自分と対峙します。

 

何が言いたいのかというと、やりたい放題できる世紀末の世界でも、自由は限られるということだ。

 

そして「力こそ全て」ではない現在の社会では、自由(あるいは権利)は容易く他の誰かの自由と衝突する。

日本の憲法では、さまざまな権利が「公共の福祉に反しない限り」と制限をかけられている。

 

そして子どもたちに伝えるようにしていふるのは何かを選択するということは、その結果に対して責任が問われるかもしれないということ。

「自分」で何かを選ぶのだから、その結果はもちろん「自分」に返ってくる。

もちろん僕たちは子どもの選択を尊重しなければならない(その結果として注意したり叱ったり居残りしたらということは当然ある)。

そういった一定の規律のない、何をしても自由だと、人は自分の人生で自分の選択ができなくなってしまう。

親や教員、友だち、あるいは環境などのせいにして、自分で責任を取ることを放棄してしまう。

そうではなく、自分で自分の人生を自由に生きていってほしいなぁと思うのです。

 

なんだか元ツイートの趣旨(放任の自由より一定の規律や制限のある方が子どもたちは自由を謳歌できているんじゃないかという話)とはズレちゃいましたが、そんなふうに思って日々、子どもたちに関わっています。