僕たちの生きている日本の社会では、ある一定のことができることが求められる。
コミュニケーションもそう
身の回りのこともそう
勉強もそう
仕事もそう
人付き合いもそう
恋愛や結婚もそう
どれか1つでもできないとそれだけで下に見られてしまう社会だ。
その一定レベルができることが「普通」だから。
だからだろうか、日本は障がいに対して厳しい面があると思う。
できることではなく、「できないこと」にまず注目してしまうのだ。
何ができるかではなく、何ができないかで人を見極めようとしてしまう。
一方で、普通を強要されてきた普通な人たちは、普通でない優れた才能に憧れる。
偏っているかもしれないそのパラメータの「とがった部分のみ」にフォーカスして、「天才だ」「才能だ」「自分には無理だ」と憧れ、敬い、怖れ、妬む。
その場合は、彼らの「できること」にしか注目されないし、仮にできない部分に話が移っても、その困難を乗り越えた美談にしかならない。
自分たちとは違う世界の人だと一線を引いてしまう。
でも自分たちの世界にいる、とがった才能はあるけどできない部分のある人を見つけると、余程のことがない限り、認めようとはしない。
普通じゃないからだ。
『普通な人は、普通でない特別なものに憧れながら、普通の世界のルールを遵守し、普通でないものを排斥する。そうすることで、普通な自分たちの「普通」というアイデンティティを保とうとしているのだ。』
そんな社会に合わせたのか、学校では「普通」な子どもを生産することに重きが置かれていたように思う。
みんなと同じように
できないことをなくすように
できるからといって図に乗らないように
それはとがった才能や個性と言われるような角の部分を削って丸い石を作る仕事のようにも思える。
出来上がった石は、おおむね丸いが、大きさは異なる。
中には削る前の方がとがっていびつな形だが、圧倒的に大きかったものもある。そんな石は削られて小さな小さな丸い石にされる。
できないことができることは悪いことではないし、その子がこの社会で自分の人生を送っていくためには必要なことだと思う。
一方で、教員に反発し、罵詈雑言を浴びせていた子どもが、落ち着いて話を聞き、敬語を使って喋るようになるのを見て、良かった以外のモヤモヤした感情を持ってしまう自分がどこかにいる。
今現在の社会で上手く生きていくためにはある程度丸くなければいけない。
でも、まるく削られることで、失われてしまうものがある。
その失われたものこそが、その子の本当に大事な部分なんじゃないかと思うこともある。
教員という自分の仕事の意義と意味を考えてしまう。
好きなこと、得意なことを伸ばしたいという思いと、社会で生き伸びていくために普通にしていくという矛盾した2つの方針があるのだ。
結局のところ、削られるのか、とがった部分をさらに伸ばしてとがらせるのか、それを選ぶのはその子本人だ。その子が歩むのはその子の人生だからだ。
でも、幼い段階ではその子には自分の人生をまだ選べない(選ばせてもらえない)ため、保護者や教員の価値観が大きく左右する。
さぁ、僕の関わりは良かったのか悪かったのか。僕は子どもを信じて任せているのか、それとも洗脳して自分の価値観を強制しているのか。
答えが出るのはまだまだ先だ。
とりあえずは種を蒔こう。
促成栽培するのでもなく、自然に任せるのでもない。芽がでるかどうかは子ども自身に任せよう。
一番最初のブログ、「種を植える仕事」という言葉について - メガネくんのブログでも書いたけど。
僕たちの仕事は種を蒔く仕事だ。