こころの重石になっていた資格試験が終わった。
まぁ後悔の残る結果に満足できず、やらせない気持ちになっているのだけれど。
疲れたので早く寝ないといけないけれど、なかなか寝つけない夜。
そんな時ってありますよね。
一息つきたいという思いと、一山超えたから次はアレコレをしないといけないという思いが交錯する。
そして特に着地点のないブログを書く。
一体自分は何をしているんだろうか。
最近思うのは、自分の将来のことだ。
三十代半ば、働きはじめてからはとりあえず走ってこれた。
まだまだ頑張るぞと思う一方で、体力的にも家庭的にも以前の若い頃のようにはいかないなぁという実感もある。
子どもの頃は大人になれば何もかもがわかると思っていたけれど、大人になった僕はそうではないことをもう知っている。
誰もがわからない中で何かを選んでいるのだ。
一息ついて考える時期なのかもしれない。
以前も何かをやめるということは、何かをはじめるということだ - メガネくんのブログで引用した、ネットで見た話を思い出す。
ある大学でこんな授業があったという。
「クイズの時間だ」教授はそう言って、大きな壺を取り出し教壇に置いた。
その壺に、彼は一つ一つ岩を詰めた。壺がいっぱいになるまで岩を詰めて、彼は学生に聞いた。
「この壺は満杯か?」教室中の学生が「はい」と答えた。
「本当に?」そう言いながら教授は、教壇の下からバケツいっぱいの砂利をとり出した。
そしてじゃりを壺の中に流し込み、壺を振りながら、岩と岩の間を砂利で埋めていく。
そしてもう一度聞いた。
「この壺は満杯か?」学生は答えられない。
一人の生徒が「多分違うだろう」と答えた。
教授は「そうだ」と笑い、今度は教壇の陰から砂の入ったバケツを取り出した。
それを岩と砂利の隙間に流し込んだ後、三度目の質問を投げかけた。
「この壺はこれでいっぱいになったか?」 学生は声を揃えて、「いや」と答えた。
教授は水差しを取り出し、壺の縁までなみなみと注いだ。彼は学生に最後の質問を投げかける。
「僕が何を言いたいのかわかるだろうか」
一人の学生が手を挙げた。「どんなにスケジュールが厳しい時でも、最大限の努力をすれば、
いつでも予定を詰め込む事は可能だということです」「それは違う」と教授は言った。
「重要なポイントはそこにはないんだよ。この例が私達に示してくれる真実は、大きな岩を先に入れないかぎり、それが入る余地は、その後二度とないという事なんだ」
君たちの人生にとって”大きな岩”とは何だろう、と教授は話し始める。
それは、仕事であったり、志であったり、愛する人であったり、家庭であったり・自分の夢であったり…。
ここで言う”大きな岩”とは、君たちにとって一番大事なものだ。
それを最初に壺の中に入れなさい。さもないと、君達はそれを永遠に失う事になる。
もし君達が小さな砂利や砂や、つまり自分にとって重要性の低いものから自分の壺を満たしていけば、
君達の人生は重要でない「何か」に満たされたものになるだろう。
そして大きな岩、つまり自分にとって一番大事なものに割く時間を失い、その結果それ自体失うだろう。
自分にとって、大きな岩、人生で重要な「何か」は何だろう。
家族、仕事、友人、趣味、それ以外の何か。
何を優先するべきなのだろうか。
何か2つ以上のことに思う存分のめり込んでやり尽くすには、時間が足りない。
それは人生というゲームの困ったところでもあり、でもその制約がいろんなドラマを生み出す仕掛けにもなっているんだろう。
そんなことを考えていて、ある日突然余命を宣告されるかもしれないのも人生の悲劇であり醍醐味なのだろう。
まぁまだそう達観するまで徳を積めていない僕は、悩みもがくのである。
一息ついたらまた悩もう。
僕は周りが思う僕ではなく、僕自身が思う僕らしく生きる道を選びたいんだ。