メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

よしわるしの話

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数年前から考えていること。

何事も「よしわるし」がある。言い換えるとメリット・デメリットがあると言う話です。

 

僕自身の話をすると、小さい頃から勉強ができた。小学校のテストは100点が当たり前だったし、中学校でも90点以下はショックだった。特に進学塾なんかに通って夜遅くにまで熱心に勉強していた訳じゃない。まぁ高校は進学校に進んで、そこで賢い+熱心に勉強する同級生が大半という状況を体験し、見事に劣等生に落ちぶれてしまうのですが笑

 

勉強ができるというのは世間一般ではいいこととされている。

でも勉強ができるということは、実は「勉強ができない人の気持ちがわからない」ということにも繋がる。もちろん「勉強ができて知識が増える」「勉強ができる子の気持ちがわかる」などのよい面もあるのですが。

 

なんでもそう、運動ができる人はできない人の気持ちがわからなくて「なんでそんなことができないのだ」「怠けているから、努力していないからじゃないか」と考えてしまう。

そもそもその考え方は、運動ができる人、ちょっと頑張れば周りよりも運動ができて、努力すれば結果がついてきて、また努力するサイクルを重ねてきた人の考え方なのです。

なので、運動ができる人は、運動の苦手な人が、自分の身体を思うように動かせないもどかしさや、どうやっても上手くできなくて、しかもバカにされて運動なんてやりたくないという気持ちに寄り添って考えることは難しくなる。

もちろん相手の立場に立って考えることはできるけど、本当の意味で相手の立場に立つことはできない。そう思います。

 

まぁできるできないだけでなく、世の中の大体のものには「よしわるし」があると思うのです。

 

別にだからどうしたらいいかとかがある訳ではないです。ただ、100パーセントよいこと、100パーセントわるいことは多分ほとんどなくて、見方を変えれば(偏った見方だと100パーセントになることまであります)、よしわるしが出てくると思うのです。

それは自分に対しても戒めのようなものにしています。

 

一見理不尽な指導をされることだって、ストレス耐性に繋がるかもしれない。

逃げ出すことは、将来頑張りすぎて自分を壊してしまうことを防ぐかもしれない。

虐待されることが、虐待された子の気持ちに寄り添うことにつながるかもしれない。

全然仕事できないと思っていた教員が、勉強の苦手な子に寄り添いながら信頼関係を気付けるかもしれない。

イジメにあって周りの空気を敏感に気にするようになってしまうことは、視野が広がり周りの人をフォローできることにつながるかもしれない。

 

何事もよしわるしがあるのです。

そのバランスを考えたり、その上で選択したり調整したりするのは難しいのですが…。

 

ただひとつ大事にしているのは、「できないことは、できない人の気持ちに寄り添うことにつながる」ということです。

何事にも「よし」があります。

 

もちろんそれをどう活用するかはその人次第ですが、できないことは悪いことばかりではないと考えるようになってから僕は生き方がずいぶんと変わりました。

 

以上、よしわるしの話でした。