『もっと言ってはいけない(橘 玲)』を読んで思ったこと。そのに。
前の本でも取り上げられていた遺伝の影響。
もちろん全てが遺伝で決まるわけではない。
家庭での習慣や習い事、友だちなど周囲の環境、家庭や学校などでの教育などの影響もある。
私(人格)は遺伝と環境によって作られ、環境は共有環境と非共有環境に分けられる。これをまとめると、
私(人格)=遺伝+環境(共有環境一非共有環境)
となる。
共有する遺伝子と共有環境は兄弟をお互いに似させるちから、異なる遺伝子と非共有環境は別々にする力だ。一卵性双生児は同一の遺伝子を持っているが、非共有環境(友だち関係)の効果によって異なる人格になる。−−家庭内でも兄・姉と弟・妹で扱いが違うこともあるだろう。
ただ僕たちがイメージするよりも、遺伝の影響は大きいらしい。
そして生育環境が変わり、社会が平等に近づくにつれ、学校に通えるかどうかが、親の職業や収入に左右されず当たり前になり、環境の影響は小さくなっている(その分、遺伝率は上がっている)。
最近の東大生は、東大卒→美男美女と結婚→子どもが東大へ→の繰り返しで、一昔前の勉強だけで顔はイマイチというイメージではなくなっているという話も聞いた(大変失礼な内容だけど)。遺伝はさらに収束し、その差はどんどん開いていくのかもしれない。
学力も性格も運動能力も道徳性も魅力も病気も犯罪率も遺伝の影響がそれほどに大きいのなら、教育という場で働く僕には何ができるのだろうか。
(余談だけど、そう考えると、浦飯幽助もナルトも黒崎一護もジャンプの血統至上主義は案外理にかなっているのかもしれない)
もちろん全てが努力だけで決まるわけではない。実際の事実として、ヒトとヒトとには能力の差があるし、その残酷な事実を突きつけられれば、多くの人は努力することを諦めてしまうかもしれない(決して努力が必要ないという訳ではない、出会いや努力がなければ才能という種があっても芽吹かないだろう)。
教育という場で働く僕は、この遺伝の話に少々複雑な気持ちにさせられる。
みんながみんな努力すれば報われるというのが、幻想的な面を待っていることは知っているし、その幻想が、「成功できないのはお前が努力していないからだ、まだ努力が足りないからだ」と個人を押し潰してしまうことへの危惧はある。
でも、全てが遺伝で決まってしまうのなら、教育という仕事の意味はあるのだろうか。
もちろん全てが遺伝ではないし、幼少期の教育の方が影響が多いとはいえ、年を経てからも学びによる効果はある(確かに、支援学校高等部になった子どもたちが変わるのはなかなかに困難だ、15年以上にわたる積み重ねがあるからだ。保護者は言わずもがなだ)。
それだけでなく、学びに向かう意思というもの、それは遺伝の前では幻想と叩き潰されるのかもしれないけれど、そんな意思が、人の歩みを進めるのではないかという想いがある。
それを後押しするのが教育なのだと僕は思う。
もちろん教育が目指すのは、知能面だけではない。IQ(IQの定義はなかなかに難しいが)が遺伝によって決まるのだとしても、そのIQはその人を孤立させるかもしれない。人は孤独では生きていけない、そう本書の最後で描かれる、イーロン・マスクのように。
結婚と離婚を繰り返し、独身に戻ったマスクは、2017年、『ローリング・ストーン』誌の取材に対しこう語った。
「子どもの頃から、ずっといいつづけてきた。一人ぼっちにはぜったいになりたくない。一人はイヤなんだ』