メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

3歳児からと問いとその回答から無知の知に至る

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3歳の娘からの問いかけから。

 

「ねぇねぇ、車って何でできてるのー?」

「んーいろいろかなぁ。窓はガラスやし、外側は鉄やし、座っているシートは布やし」

「じゃあ道路は何でできてるのー?」

アスファルト

「葉っぱは何でできてるのー?」

「んー葉っぱは難しいなぁ。細胞?葉緑体?…ほとんど水やねんけど」

「でも葉っぱカサカサやで」

「そやなぁ、枯れた葉っぱはその水分が抜けたやつやねんけど…じゃあ人間、○○ちゃんは何でできてると思うー?」

「んーいちご♡(娘の大好物)」

「えー、いやまぁまぁそうかな。実は人間の身体は食べたものでできてます。だから…」

 

アリストテレスの産婆法(助産法)を思い起こさせる。

3歳児からの鋭い問いかけに、自分は何かを知っているつもりで、やっぱり実は何もわかっていないことに気づかされる。

無知の知

考えてみれば、ガラスって何だろう、鉄は、布は、アスファルトは何からできているのだろう。どこにあるのだろう。どうやって作るのだろう。

電子レンジやエアコンや洗濯機や自動車を当たり前のように使っているけど、その仕組みはどうなっているんだろう。

一から組み立てる方法はどうなんだろう。

当たり前のようにあって、ごくごく自然に使っているものなのに、実は知らない。

まぁ知らないことが悪いことじゃなくて、そこから娘と一緒に考えたり、娘に振ってみたりするのも大事なのだけれども。

 

葉っぱを知っているつもりでいて、3歳児から葉っぱって何と尋ねられても答えられない34歳って…。

こんなことでは、文明が崩壊した後の世界では生きていけない。

千空くんのようにまた宇宙へ進出するなんて夢のまた夢だと突きつけられる。

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何かを目指すと言うことは、わかった気になっていることを一つ一つ確認して自分の血や肉に変えていくといつこと。

それをしないのに、わかった気になってしまう人間の怖さ。

何かをわかった気になることの恐ろしさと恥ずかしさについて、改めて認識させられた話でした。

純粋な疑問を持った3歳児の視点は面白い!

そして自分は自分の常識にしばられているんだなぁと再確認。

終わりの会

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自分の正義だけが正しいのではなく、他の人にはその人なりの正義があると言う話。

 

正義の反対は…

と言う問いの答えは悪ではなくて「別の正義」だと言う話をTwitterやnoteで見かけて小学校時代の終わりの会を思い出した。

小学三、四年生の頃のクラスで、僕はクラスの優等生的なポジションにいた。勉強は一番できたし、その終わりの会の仕切りをはじめ、いろんなクラスのことで中心になっていた。

その後、ミニバスをはじめ、そのバスケの上手さや運動神経が全ての世界の中ではそこそこくらいの位置になるので、クラスの中の位置関係も変わっていくのだけど。

 

小学校教員をしていた母親から聞いた話によると、僕は脱線しそうになった話し合いを元に戻すような働きをしていたそうで、それもあって担任の先生は話し合い活動で研究授業をされていたそうだ(その辺は全く記憶にない)。

 

ただ終わりの会でよくあった、魔女裁判のような犯人を追い詰めていく流れは記憶している。

「今日○○さんにこんなことをされました。悲しかったです」

「私もそれを見ていました。」

「○○さん本当ですか」

「…」

「○○さん、ちゃんと言ってください」

「…やりました」

「じゃあ○○さん□□さんに謝ってください」

「…ごめんなさい」

「ちゃんと謝っていません」

「心込めてください」

 

細かい流れは覚えていないけれど、あの頃の自分が「自分が正義の側にいる」と思い、他の子を断罪していたのは覚えている。いや、そう思いつつ「正義という立場から一方的に断罪する」自分に酔っていたのだ。

あの頃は僕は、相手には相手なりの理由や正義があるということを理解していなかった。

当時の(それは今もかもしれないけれど)学校では、お手本のような正しい『正解』があって、それをすることだけが唯一無二の正解という世界だった。

 

終わりの会で異端審問官のように言葉巧みに皆を断罪してきた(終わりの会で自分が断罪されることは巧妙に避け、もしあっても殊勝な態度で謝ることで弾劾を避けていた)小学生の僕は、本人は自分を正義だと思っていたのに、驚くほど悪役のテンプレートだ。

 

その後、いろいろな挫折を経てきた上で今の僕がいる。

別に今の自分だけが正義だとは思っていない。

でも今の世の中には正義が溢れている。

そして世の中には一つの正解、絶対的な正義を求める人が沢山いる。

 

でも、絶対で唯一無二の正義は多分ない。

「悪には悪の救世主が必要なんだよ」という名言もあるし。

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別に怪人側が勝ってもいいじゃないかという考えもある。

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自分の育ってきた環境の刷り込みから抜け出すのはなかなかに困難だ。

でも、正義についてのツイートを見ると、僕はこの終わりの会での醜い自分を思い出す。

僕はあれから変わったのか、それとも表面だけ変わったようで本質的には変わっていないのか。

多分本質的には変わってはいないのだろう。

今でもそんな顔が出てくるのを感じるときがある。

でもあのままではいたくないので、今日も僕はちょっと背伸びしながら頑張っているのだ。

間違っても失敗しても大丈夫と思えるために必要なこと

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母さん知っている?

訓戒も有り難いけど

たったひと言

親に「大丈夫だ」と

言ってもらえたら

それだけで僕等は

選んだ生き方に

胸を張る事が

できるように

なるんだよ…

マイガール

マイガール 1

マイガール 1

 

 

「人的環境のユニバーサルデザイン(阿部利彦/赤坂真二)」を読んでから人のユニバーサルデザインについて考えている。

人的環境のユニバーサルデザイン

人的環境のユニバーサルデザイン

 

 

「失敗から学ぶ」

「失敗を恐れずに」

「失敗できるのは学校にいてる間だけだから」

こんなことを子どもに伝えることも少なくないかもしれない。

でも、言葉でそう言いつつ『本当に失敗することを受け入れる土壌』ができているだろうか。

口では「失敗してもいいよ」というけれど、失敗を責められる体験を重ねてきた僕たちの呪縛はなかなか厳しい。

失敗を責める空気や失敗させまいとする思いはなかなか消せない。

でも僕たちが子どもと信頼できる間柄になって、「大丈夫だと」一言伝えられるなら、子どもの感じている不安や恐れはかなり軽減できるんじゃないか。

 

教員からだけでなく、その失敗しても大丈夫という雰囲気は子どもたちの間にもなければならない。

子どもたちがそうなるためには、教員が見本を見せないといけない。

また教員や大人が、失敗から学ぶ姿勢を示すことができるかどうか。

 

モデルを示す。

どうも教員とは子どもに言葉がけなどで指導する中で、子どもを変えていこうとしてしまうようだ。

でも「○○しなさい」で子どもたちは動くだろうか。

動くかもしれない、でもそれは子どもたちが納得して行動を変えているのだろうか。

そうではないケースが多いのではないかと思う。

そうではなくて、子どもたちが「これいいな」「やってみよう」というモデルを教員側が示すことができれば、子どもたちの納得にもっと繋がる。

山本五十六の言葉ではないが、言う前に、こちらがやってモデルを示して見せること。

そのために教員自身が間違いや失敗を大丈夫と言われる(もちろん程度はあるが)、そしてその間違いや失敗を次に活かすモデルを示せるかどうかにかかっているんじゃないかな。

 

技術と環境だけでなく間を繋ぐ人の在り方

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研修や本で子どものための環境設定の話や指導の際の技術・テクニックの話ってたくさん出てくると思うんです。

 

でも人としてのあり方の話って当たり前すぎて、みんな見逃してだけど、実は一番大切なんじゃないかという話。

最近立て続けに読んだ2冊がそのことに気づかせてくれた。

 

人的環境のユニバーサルデザイン

人的環境のユニバーサルデザイン

 
インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

インクルーシブ教育を通常学級で実践するってどういうこと? (インクルーシブ発想の教育シリーズ)

  • 作者:青山 新吾,岩瀬 直樹
  • 出版社/メーカー: 学事出版
  • 発売日: 2019/01/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

考えてみれば僕の教員のあり方としての出発点もそうだった。

特別支援学校の中学部。

それ以前も、塾講師のアルバイトや教育実習で人に教えることはしていた。

障害のある子たちの学童(今で言う放課後等児童デイ)やガイドヘルパーグループホームのキーパーなどのアルバイトや支援学校高等部の子どもたちの余暇活動のボランティアなんかをしていた。

それなりにできている気だったし(ただの過信…)、若さにかまけ、遊ぶときも怒るときも全力だった。そして、そんな自分は子どもを思うようにコントロールできると思っていた。

いうことを聞かずに逃げ回る子を捕まえ叱る日々。

そこで相担任の先輩から言われたことがその出発点だ。

「子どものことを叱り過ぎたらあかんよ。10悪いことがあったら、その内1か2くらいにしとかなあかん。叱りすぎると子どもの気持ちが離れてしまう。そうしたら言うこと聞いてくれへんくなるよ。だから叱るのを減らして、叱った分子どもといっぱい遊ぶねんで。」

それが僕の教員としての出発点だ。

 

そして転換期が1つ。

3年間担任した生徒が、大学受験合格後やる気が起きず、サボりだしたとき、僕はその子の声を聞かずに責めてたり課題を増やすことで対応しようとした。

早い話が子どものせいにしたのだ。

以前のブログ、後悔している話 - メガネくんのブログでも書いたが、そのことに対する後悔が、自分の引き出しを増やすことや子どもに寄り添うこと、子どものことを知ること、程よいゆるさという今のスタンスに繋がっているんじゃないかと思う。

 

当たり前の話だけれど、「わからないことはどんどん聞きなさい」と言われて子どもたちは実際に聞くだろうか。

聞くとすれば、なぜ行動するのか。

聞かないとすれば、なぜ行動しないのか。

それを子ども個人の責任にしてしまうとそこで行き止まり。多分どこにも発展しない。

 

それは子どもの能力やスキルだけでなく、『わからないことを聞くような雰囲気』があるのかないのかと言うことが重要ではないだろうか。

失敗しても受け入れる土壌があるのか。

間違いを笑わないクラスの関係性があるのか。

指導者が率先してモデルとなっているのか。

子どもと子ども、子どもと大人の関係性はどうだろうか。

どうすれば子どもが失敗を恐れず学べる雰囲気、子ども同士がお互いを尊重しあえる雰囲気、必要に応じで助け合える雰囲気ができるのか。

鍵になるのは周りの大人のあり方だ。

 

子ども。

子どものことをわかったつもりになっている僕たちは、実際どれくらい子どものことをわかっているのだろうか。

 

技術と環境の工夫、それを子どもへと繋ぐのは僕たち大人の人としての在り方だ。

この世に一つだけのモノに価値はあるのか

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大学の時の法哲学の授業の内容から。

 

「この世に一つだけのモノに価値はあるのか」という問いかけ。

 

通算ホームラン本数日本記録保持者の王貞治さんの868号ホームランボールは、もちろんこの世に一つだけのモノだ。そして計り知れない価値がある(と多くの人が思っている)。

 

一方で僕の筆箱の中に入っているモノ消しゴム。そう、あのトンボ鉛筆のMONO消しゴム。

これも世界に一つだけのモノである。

トンボ鉛筆 消しゴム MONO モノPE04 8個 JCA-811AZ

トンボ鉛筆 消しゴム MONO モノPE04 8個 JCA-811AZ

  • 発売日: 2016/06/17
  • メディア: オフィス用品
 

「いやいや、量産品じゃないか」という声があがるかもしれませんが、違います。

僕が、令和2年の1月に使っているモノ消しゴムはこの世に一つだけのモノです。

あの削れ方、つまり形を取ってみても、新品でない限り全く同じ形のものはないと言ってもいいでしょう。

 

同じ世界に一つだけのモノですが、その価値は大きく異なります。

きっと僕の使いかけのモノ消しゴムはヤフオクでもメルカリでも売れないでしょう。

 

 

大学の講義で学んだ、人がモノに価値や愛着を感じるための条件は2つあって、名前と時間ある。

名前と言うのは、モノ消しゴムという商品名に限らず、例えば「雪之丞」とかいう個別の名前になるわけです。

名前をつけたことで、雪之丞は他のモノ消しゴムとは異なります。見た目にも違って見えます。

犬や猫を飼っている方は、一般名詞の犬や猫としてではなく、うちの犬・猫、または個別の名前で彼らを認識するのではないでしょうか。

さて、無事に名前のついた「雪之丞」ですが、それだけで愛着や価値を感じるようになるわけではありません。

時間、つまりそのモノと共に過ごす歴史が必要になります。

「会えない時間がぁー 愛育てるのさー」

ではなく、共に過ごした時間が愛を育てるのです。

大学入学の時に購入したモノ消しゴム、いや雪之丞。大学時代の理不尽な試験も共に乗り越えたし(法学部の試験は、「〇〇法第〇条について論ぜよ」というだけの問題文に対して、A4のレポート用紙3枚程度の解答を要求され、しかも合格率は7割程度でした…)、大学のサークルで落とした雪之丞をあの子が拾ってくれたときも(あのことは社会人になる前に別れてしまったなぁ)、大量に書いたエントリーシートの下書きを消すときも(今回はご縁のなかった企業がたくさんいた)、教員採用試験の勉強をしたときも(二度目の正直で合格)、ずっとそばには雪之丞がいました。

そんなあるとき、雪之丞の姿が見えません。

どこを探してもいないのです。

「あぁ雪之丞、一体どこへ行ってしまったのか」

周りの人は、「たかが消しゴム、新しいのを買えばいいじゃないか」とか「この消しゴムあげるよ」なんて事もなげに言います。

でも僕は雪之丞じゃないとダメなんです。

他の消しゴムじゃもう満足できないんです。

 

 

…自分でも何を書いているのかよく分からなくなってきました笑

とりあえず名前だけでなく、時間が必要だということは分かってもらえたでしょうか。

 

当たり前ですが、この世に一つだけのモノ全てに等しく価値があると言う訳ではありません。

この世に一つだけということは、価値があることの原因にも、ないことの原因にもなり得ます。

価値のあるなしを決めるのは、希少性ではなく、有用性、つまり役に立つか(と多くの人が考えるかどうか)と、多くの人が価値があると認めるかどうかによります。

野球なんて見た事も聞いたこともない人からしたら、冒頭の王貞治のホームランボールも価値のないモノになってしまいます。

その辺りは、社会科で習う需要と供給の関係に似ている気がします。

 

 

なんでこんなことを書いているのかというと、ある人から言われた「なぜ障がいのある人に配慮をしないといけないのか」という問いかけについて考えているから。

論理的に反論はしたつもり、だが納得はしてもらえなかった。

 

障がいのある人は価値があるのか?という問いかけは、価値がなければ大切にしなくてもいいのか?という問いかけに繋がる。

価値とは何なのか?

役に立つ立つことだけが価値ではないとは思う。そう説明したかった。

少なくともこれまで出会ってきた障がいのある子たちには魅力がたくさんあるし、僕個人としてはその子たちを蔑ろにされて欲しくない。

ただ歴史的には生産性や有用性で障がいのある人や高齢者が排除された時代があるのは事実だ。

生産性や有用性で線引きをすれば、基準がどこになるのかはわからない。

「なぜ障がいのある人に…」と言っていたその人も線引き次第でどちらに回るかわからない。

役立つかどうか、能力があるかどうか、お金を持っているかどうか、それだけでその価値観に照らし合わせて劣るものを排除していくのがいいのか。

まだその辺のもやもやは解消できていないので、しばらく考え続ける。

どうしたら伝わるのか。

 

とりあえず、少なくとも自分にとって価値のあるものが、他人にとっても価値のあるものとは限らないし、その逆も然りということです。

集団づくりの中核となるミドルリーダー

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仕事は一人ではできない。

だからみんなでチームとして動いていく集団づくりが必要。

 

チームビルディング。

ある目的のために仲間が思いを一つにして、ゴールへ向かって進む組織づくり。

 

そのために大切なのが

目標の共有化

合意の形成

コミュニケーションの活性化

情報の共有化

他人の意見を尊重する

チームとしての意識を持つ

などなど

 

 

集団づくりと言っても一人でできることは限りがある。

集団づくりのために情報共有やコミュニケーションが大事なことはよくわかる。

よくわかる。

けれども、それで仕事量が増えてしんどくなってしまうのもどうなのかとも思う。

 

業務の効率化やマニュアル化も大事だけど。

効率化を進めてもメール見ない、タブレット拒否みたいな人もいるし。

マニュアル化を進めてもそれ以外に柔軟に対応できら力も必要だし。

そして効率化やマニュアル化だけではダメで、話を深めて、問題意識や目的意識を共有する時間も必要なのは確か。

 

要はバランスの問題なんだけど。

そしてミドルリーダーと呼ばれる僕たちに求められるのもわかるけれど。

最初に戻るけど一人では仕事はできないし、チームビルディングも限界があるんだよなぁ。

 

ということをざっくばらんに話しつつ、

今日出てきた、教員の今日の機嫌を示す立札(◎〇△✖️とか表情マークとか)なんか面白いと思うんですよ。

でもまぁそれができる関係なら苦労しないかもとは思いつつ。

 

何をするにしても、二言目には「忙しい」という現場(もちろんどのくらい忙しいのか、業務量が特定の個人に偏っていないか、本当に効率よく仕事しているのかなどの疑問があるケースもある)と、何かにつけてやることを下ろしてくる委員会や管理職との間に挟まれがちなミドルリーダー。

 

何かを増やすことだけでなく、調整しながら進める仕組みを考えないといけないと思いつつ、減らしながら進める具体的なプランがまだ浮かばない…。

 

チーム〇〇とか簡単に言うけれど、チームづくりは難しい。大人の場合は尚更だ。

 

調整や関係づくりって難しい。

みんながチームB押しを歌える人ばっかりなら、速攻で仲良くなれて意見もガンガン言い合えると思うんだけどなぁ(最近のメンバーは知らない)。

他所の職場で頑張っている人がいるという励み

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今日は研修会。ミドルリーダー育成のためのもの。集団づくりについて。

 

ミドルリーダーってなんぞやとか、ミドルリーダーとかいう体のいい言葉で年配がやるへべき仕事を押し付けるなよとか、そんなんこっちだけに言われても無理やしとかは置いておいて。

 

同年代の学年主任や行事主担や分掌部長なんかで苦労されながらも頑張ってる方々と

ざっくばらんに話して、

愚痴も言いつつ、

あーでもない、こーでもないと言い合っている

そんな時間はとても楽しかったです。

頑張る力を貰いました。

他にも同じような状況で苦労しながら頑張っている方がいる。

それが明日から頑張る励みになります。

研修で学んだ知識よりも。

 

同じ班になった先生方、ありがとうございます。

さてまたこれからもぼちぼち頑張っていこう。