メガネくんのブログ

何となく日々思ったことを書いていくブログです。教育や本の感想なんかも書いてます。表紙の画像は大体ネタです。

この世に一つだけのモノに価値はあるのか

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大学の時の法哲学の授業の内容から。

 

「この世に一つだけのモノに価値はあるのか」という問いかけ。

 

通算ホームラン本数日本記録保持者の王貞治さんの868号ホームランボールは、もちろんこの世に一つだけのモノだ。そして計り知れない価値がある(と多くの人が思っている)。

 

一方で僕の筆箱の中に入っているモノ消しゴム。そう、あのトンボ鉛筆のMONO消しゴム。

これも世界に一つだけのモノである。

トンボ鉛筆 消しゴム MONO モノPE04 8個 JCA-811AZ

トンボ鉛筆 消しゴム MONO モノPE04 8個 JCA-811AZ

  • 発売日: 2016/06/17
  • メディア: オフィス用品
 

「いやいや、量産品じゃないか」という声があがるかもしれませんが、違います。

僕が、令和2年の1月に使っているモノ消しゴムはこの世に一つだけのモノです。

あの削れ方、つまり形を取ってみても、新品でない限り全く同じ形のものはないと言ってもいいでしょう。

 

同じ世界に一つだけのモノですが、その価値は大きく異なります。

きっと僕の使いかけのモノ消しゴムはヤフオクでもメルカリでも売れないでしょう。

 

 

大学の講義で学んだ、人がモノに価値や愛着を感じるための条件は2つあって、名前と時間ある。

名前と言うのは、モノ消しゴムという商品名に限らず、例えば「雪之丞」とかいう個別の名前になるわけです。

名前をつけたことで、雪之丞は他のモノ消しゴムとは異なります。見た目にも違って見えます。

犬や猫を飼っている方は、一般名詞の犬や猫としてではなく、うちの犬・猫、または個別の名前で彼らを認識するのではないでしょうか。

さて、無事に名前のついた「雪之丞」ですが、それだけで愛着や価値を感じるようになるわけではありません。

時間、つまりそのモノと共に過ごす歴史が必要になります。

「会えない時間がぁー 愛育てるのさー」

ではなく、共に過ごした時間が愛を育てるのです。

大学入学の時に購入したモノ消しゴム、いや雪之丞。大学時代の理不尽な試験も共に乗り越えたし(法学部の試験は、「〇〇法第〇条について論ぜよ」というだけの問題文に対して、A4のレポート用紙3枚程度の解答を要求され、しかも合格率は7割程度でした…)、大学のサークルで落とした雪之丞をあの子が拾ってくれたときも(あのことは社会人になる前に別れてしまったなぁ)、大量に書いたエントリーシートの下書きを消すときも(今回はご縁のなかった企業がたくさんいた)、教員採用試験の勉強をしたときも(二度目の正直で合格)、ずっとそばには雪之丞がいました。

そんなあるとき、雪之丞の姿が見えません。

どこを探してもいないのです。

「あぁ雪之丞、一体どこへ行ってしまったのか」

周りの人は、「たかが消しゴム、新しいのを買えばいいじゃないか」とか「この消しゴムあげるよ」なんて事もなげに言います。

でも僕は雪之丞じゃないとダメなんです。

他の消しゴムじゃもう満足できないんです。

 

 

…自分でも何を書いているのかよく分からなくなってきました笑

とりあえず名前だけでなく、時間が必要だということは分かってもらえたでしょうか。

 

当たり前ですが、この世に一つだけのモノ全てに等しく価値があると言う訳ではありません。

この世に一つだけということは、価値があることの原因にも、ないことの原因にもなり得ます。

価値のあるなしを決めるのは、希少性ではなく、有用性、つまり役に立つか(と多くの人が考えるかどうか)と、多くの人が価値があると認めるかどうかによります。

野球なんて見た事も聞いたこともない人からしたら、冒頭の王貞治のホームランボールも価値のないモノになってしまいます。

その辺りは、社会科で習う需要と供給の関係に似ている気がします。

 

 

なんでこんなことを書いているのかというと、ある人から言われた「なぜ障がいのある人に配慮をしないといけないのか」という問いかけについて考えているから。

論理的に反論はしたつもり、だが納得はしてもらえなかった。

 

障がいのある人は価値があるのか?という問いかけは、価値がなければ大切にしなくてもいいのか?という問いかけに繋がる。

価値とは何なのか?

役に立つ立つことだけが価値ではないとは思う。そう説明したかった。

少なくともこれまで出会ってきた障がいのある子たちには魅力がたくさんあるし、僕個人としてはその子たちを蔑ろにされて欲しくない。

ただ歴史的には生産性や有用性で障がいのある人や高齢者が排除された時代があるのは事実だ。

生産性や有用性で線引きをすれば、基準がどこになるのかはわからない。

「なぜ障がいのある人に…」と言っていたその人も線引き次第でどちらに回るかわからない。

役立つかどうか、能力があるかどうか、お金を持っているかどうか、それだけでその価値観に照らし合わせて劣るものを排除していくのがいいのか。

まだその辺のもやもやは解消できていないので、しばらく考え続ける。

どうしたら伝わるのか。

 

とりあえず、少なくとも自分にとって価値のあるものが、他人にとっても価値のあるものとは限らないし、その逆も然りということです。