研修や本で子どものための環境設定の話や指導の際の技術・テクニックの話ってたくさん出てくると思うんです。
でも人としてのあり方の話って当たり前すぎて、みんな見逃してだけど、実は一番大切なんじゃないかという話。
最近立て続けに読んだ2冊がそのことに気づかせてくれた。
考えてみれば僕の教員のあり方としての出発点もそうだった。
特別支援学校の中学部。
それ以前も、塾講師のアルバイトや教育実習で人に教えることはしていた。
障害のある子たちの学童(今で言う放課後等児童デイ)やガイドヘルパー、グループホームのキーパーなどのアルバイトや支援学校高等部の子どもたちの余暇活動のボランティアなんかをしていた。
それなりにできている気だったし(ただの過信…)、若さにかまけ、遊ぶときも怒るときも全力だった。そして、そんな自分は子どもを思うようにコントロールできると思っていた。
いうことを聞かずに逃げ回る子を捕まえ叱る日々。
そこで相担任の先輩から言われたことがその出発点だ。
「子どものことを叱り過ぎたらあかんよ。10悪いことがあったら、その内1か2くらいにしとかなあかん。叱りすぎると子どもの気持ちが離れてしまう。そうしたら言うこと聞いてくれへんくなるよ。だから叱るのを減らして、叱った分子どもといっぱい遊ぶねんで。」
それが僕の教員としての出発点だ。
そして転換期が1つ。
3年間担任した生徒が、大学受験合格後やる気が起きず、サボりだしたとき、僕はその子の声を聞かずに責めてたり課題を増やすことで対応しようとした。
早い話が子どものせいにしたのだ。
以前のブログ、後悔している話 - メガネくんのブログでも書いたが、そのことに対する後悔が、自分の引き出しを増やすことや子どもに寄り添うこと、子どものことを知ること、程よいゆるさという今のスタンスに繋がっているんじゃないかと思う。
当たり前の話だけれど、「わからないことはどんどん聞きなさい」と言われて子どもたちは実際に聞くだろうか。
聞くとすれば、なぜ行動するのか。
聞かないとすれば、なぜ行動しないのか。
それを子ども個人の責任にしてしまうとそこで行き止まり。多分どこにも発展しない。
それは子どもの能力やスキルだけでなく、『わからないことを聞くような雰囲気』があるのかないのかと言うことが重要ではないだろうか。
失敗しても受け入れる土壌があるのか。
間違いを笑わないクラスの関係性があるのか。
指導者が率先してモデルとなっているのか。
子どもと子ども、子どもと大人の関係性はどうだろうか。
どうすれば子どもが失敗を恐れず学べる雰囲気、子ども同士がお互いを尊重しあえる雰囲気、必要に応じで助け合える雰囲気ができるのか。
鍵になるのは周りの大人のあり方だ。
子ども。
子どものことをわかったつもりになっている僕たちは、実際どれくらい子どものことをわかっているのだろうか。
技術と環境の工夫、それを子どもへと繋ぐのは僕たち大人の人としての在り方だ。