自分の正義だけが正しいのではなく、他の人にはその人なりの正義があると言う話。
正義の反対は…
と言う問いの答えは悪ではなくて「別の正義」だと言う話をTwitterやnoteで見かけて小学校時代の終わりの会を思い出した。
小学三、四年生の頃のクラスで、僕はクラスの優等生的なポジションにいた。勉強は一番できたし、その終わりの会の仕切りをはじめ、いろんなクラスのことで中心になっていた。
その後、ミニバスをはじめ、そのバスケの上手さや運動神経が全ての世界の中ではそこそこくらいの位置になるので、クラスの中の位置関係も変わっていくのだけど。
小学校教員をしていた母親から聞いた話によると、僕は脱線しそうになった話し合いを元に戻すような働きをしていたそうで、それもあって担任の先生は話し合い活動で研究授業をされていたそうだ(その辺は全く記憶にない)。
ただ終わりの会でよくあった、魔女裁判のような犯人を追い詰めていく流れは記憶している。
「今日○○さんにこんなことをされました。悲しかったです」
「私もそれを見ていました。」
「○○さん本当ですか」
「…」
「○○さん、ちゃんと言ってください」
「…やりました」
「じゃあ○○さん□□さんに謝ってください」
「…ごめんなさい」
「ちゃんと謝っていません」
「心込めてください」
細かい流れは覚えていないけれど、あの頃の自分が「自分が正義の側にいる」と思い、他の子を断罪していたのは覚えている。いや、そう思いつつ「正義という立場から一方的に断罪する」自分に酔っていたのだ。
あの頃は僕は、相手には相手なりの理由や正義があるということを理解していなかった。
当時の(それは今もかもしれないけれど)学校では、お手本のような正しい『正解』があって、それをすることだけが唯一無二の正解という世界だった。
終わりの会で異端審問官のように言葉巧みに皆を断罪してきた(終わりの会で自分が断罪されることは巧妙に避け、もしあっても殊勝な態度で謝ることで弾劾を避けていた)小学生の僕は、本人は自分を正義だと思っていたのに、驚くほど悪役のテンプレートだ。
その後、いろいろな挫折を経てきた上で今の僕がいる。
別に今の自分だけが正義だとは思っていない。
でも今の世の中には正義が溢れている。
そして世の中には一つの正解、絶対的な正義を求める人が沢山いる。
でも、絶対で唯一無二の正義は多分ない。
「悪には悪の救世主が必要なんだよ」という名言もあるし。
別に怪人側が勝ってもいいじゃないかという考えもある。
自分の育ってきた環境の刷り込みから抜け出すのはなかなかに困難だ。
でも、正義についてのツイートを見ると、僕はこの終わりの会での醜い自分を思い出す。
僕はあれから変わったのか、それとも表面だけ変わったようで本質的には変わっていないのか。
多分本質的には変わってはいないのだろう。
今でもそんな顔が出てくるのを感じるときがある。
でもあのままではいたくないので、今日も僕はちょっと背伸びしながら頑張っているのだ。