前回の続き。
相手の気持ちを考えなさいという意外と無理難題 - メガネくんのブログ
「自分がされて嫌なことを他人にしてはいけない」
「自分がされて嬉しいことを他人にしてあげなさい」
これも子どもに言いがちなフレーズだ。
でも僕はこの言葉が失敗する場面を何度か目にしてきた。
僕たちは当たり前の前提として、この日本の社会でほとんどの人が同じ価値観を共有していると思っている。
実際はそんなことはあり得ないだけれども、日本という狭い社会で、その前提はある程度通ってしまうので、そして日本の社会ではその常識とか当たり前とか言われる前提から外れることを大抵の人は恐れるので、みんなが同じ価値観を共有していると思い込んでしまうのかもしれない。
例えば、僕は海老と蟹が嫌いなんだけれども(アレルギーではなく、ただの好き嫌いだ)、海老と蟹が嫌いなことを言うと、「えぇーなんで?」「意味がわからない」「人生の半分損している」と大抵、驚かれ、非難される。
でもそう言う人は、海老と蟹が嫌いな僕の立場ではなく、あくまで海老や蟹が好きな多数派の自分の立場から発言している。
他者の立場に立って考えるのはなかなか難しいし、毎度毎度他者の立場に立っていると自分の立場が分からなくなる。多数派の立場にあることで守られるものもある。
少し話がそれてしまったが、僕は子どもにこういったこころや気持ちのことを教えるのには段階があって、まずは自分と他者は違うということの認識からはじめるのがいいんじゃないかと思っている。
みんな好きなものが違う。
醤油ラーメンが好きな人もいれば、味噌派も塩派もいるし、ラーメンが嫌いな人もいる。アニメが好きな人、漫画が好きな人、バスケが好きな人、ドッヂが嫌いな人、野球をするのが好きな人、野球を観るのが好きな人、みんなと一緒かいい人、独りが好きな人、騒がしいのが苦手な人、勉強が好きな人、学校が嫌いな人。
そして、好きなものや嫌いなものが違うのだから、当然、物事に対する感じ方や考え方は変わる。
そこには良いとか悪いとかはなくて、ただ違いがあるだけだ。
そしてその違いを尊重しながらも、集団が集団としてあるために、一定のルールが生まれてくるのだろう。
学校という多様な人が集まる場所では、こんな多様性が学べる可能性があるんじゃないだろうか(もちろん画一化を求めたられたり、多数派を求めたりしてそうならない学校があることは知っている)。
そう考えると、冒頭の言葉の意味は変わってくる。
支援学校にいる多様な子たちの中には、本心から「僕は○○されても嫌じゃないけど…」と言う子たちもいた。
本人が何が悪いのかをわかっていないのに叱ってもあまり意味はないのだろう。
そんな子たちには、自分と他者(そして世の中の圧倒的な多数派)の考え方や価値観が違うことから話さないといけない。
自分がされて嫌なことが、イコール、相手がされて嫌なこととは限らない。その逆もそう、相手の気持ちの根っこには、相手の価値観がある。だから、相手の気持ちを考える際は、相手のことを知らないといけない。自分と他人の違いを知っておかないといけないのだ。
もちろん最初は、誰しも自分や自分の周りの人が基準になるし、わからないことは自分を基に想像するしかない。どんなに考えてもわからないかもしれないし、その想像と現実の相手が同じかどうかなんてわからない。
なぜなら相手の気持ちやこころは、姿形のないものななだから。
僕らは相手の情報や、表情や声色、発言から想像するしかできないのだ。
僕らはそんな複雑怪奇な世界で、考えすぎずに生きていく。大変だなぁ。