本の感想。
『目の見えない私がヘレン・ケラーにつづる怒りと愛をこめた一方的な手紙(ジョージナ・クリーグ/中山ゆかり)』という本を読んだ。
視覚障がい者で英語学科の大学教員でもある著者からあの有名なヘレン・ケラーに送る書簡(もちろんヘレン・ケラーはもう亡くなっているので返事は返ってこない)という形で進んでいく。
ただそこに描写されているのは、読者がヘレン・ケラーのその人の感覚を共有しているかのような、まるでその場で同じ時を過ごしたかのようなリアルさ、そして障がい者のシンボルとして描かれたヘレン・ケラー像への怒りだ。
ヘレン・ケラーへの怒り?
その言葉だけを聞いても頭に疑問が浮かぶだろう。
ただ本を読み進めていけば、障がい者の顔として誰もに知られるヘレン・ケラーと比べられる当事者たちの暗い想いに「確かに」と思わされる。
「あなたはなぜ(目が見えないだけなのに)あとヘレン・ケラーのようにできないの?」
そんな風に周りから思われる苦痛はいかほどだろうか…
伝記に載る偉人はその歩みや人格が過度に美化される傾向がある。
「こんなにすごい人がいたんだよ」
「みんなもこんなすごい人に近づけるように頑張ろうね」
そんなねらいがあるからなのだろうが…
この本を読んでいて、千円札に描かれている野口英世の伝記を思い出した。
初めて読んだ伝記では、幼い頃の手の火傷に負けずに努力し、人々を病原菌から救うために我が身を賭して研究に捧げた、研究者の鑑のような姿が描かれていた。
それが『遠き落日(渡辺淳一)』という本を読んでそのイメージが崩れ去った。
まるで鉄火場の博打ちのように渡米費用も含めた全財産を浪費して使い果たし、場当たり的に結婚し、そして山師のように病原菌発見で一発逆転を狙う…
そんな野口英世の姿には偉人らしさのカケラもない。
でもそれは当たり前で、完璧な人間なんていない。
誰しもが不得意や苦手、嫌いなこと、人としての醜さがあって当然なのだ。
だからこそ、人は偉人に完璧な姿を求めるのかもしれない。
特に奇跡の人とも謳われるヘレン・ケラーには、自分からそのような人としての醜さを発信する機会が限られ、あるいは制限されていたので、そのように過度に美化されてしまったのかもしれない。
バリバラなどの番組でもよく取り上げられ、批判されるようになったが、まだまだ純真無垢で真面目、人を疑うことを知らない障がい者像というものは多くの人の意識の中にある。
偏見や思い込みなしに、ただありのままの相手を受け入れ、受け止めることの難しさ…そんなことを考えさせられた。