多様性について考える。
多様性があるということ、できないということはなにかのアイデアに繋がる可能性を秘めているのかもしれない。
— メガネくん@盲学校からの発信 (@tattumiiii) 2020年1月30日
支援学校で働く僕は、支援の必要な子たちへの関わりが、そうでない人にとっても有効であることを知っている。
もちろんそれだけが多様性を受け入れていく要件にはならないのだけれども。 https://t.co/NAJV7A1MZX
できると言うことは、変わる必要性や緊急性があまりないということだ。
多分そこから改善や改革は生まれにくいのではないか。
Twitterで見かけた支援学校の生徒が、熟練の技が必要な田植えを下敷きを使って工夫することで手早くやれるようになったという内容のツイートは、「障がいのある人がなぜ必要なのか」と問いかけられ、まだその答えをはっきりと出すことができない自分に一筋の光明のように見える。
同じ考え方や価値観の人しかいない、あるいはできる人しかいないというのはすごい爆発力を生む一方で、同時に脆さも抱え込んでいるのではないだろうか。
できないからこそ工夫が生まれる。
多様性があるからこそ、いろんなアイデアが生まれる。
その工夫やアイデアは、その人たちだけでなく、社会に生きる人たちにとっても有用なものかもしれない。
ユニバーサルデザインという概念もそうだ。
目の見えない人、耳の聞こえない人にとって使いやすいデザインが、実は子どもや高齢者をはじめ、さまざまな人に使いやすいデザインにもなった。
僕自身も支援学校で働き、日々いわゆる障がいのある子たちと関わっている。
そんな中で、普通ってなんだろう、障がいってなんだろうと考える。
どこから普通でどこからが障がいって綺麗にわかられるのもではなく、グラデーション、繋がってるんじゃないのかな。
なら僕たちが普段している障がいのある子たちへの支援は、年齢層は異なるかもしれないけれど、普通の人にもわかりやすいものになるんじゃないかなとよく思う。
いわゆる教育のユニバーサルデザインというやつだ。
教育でも多様性がイノベーションやわかりやすさにつながるのかもしれない。
そんな想いから、視覚障がいや特別支援教育についての記事もnoteで細々と書いている(良ければ読んでみてください、全部無料です)。
別に役に立つことだけが認めてもらう条件ではないと思うのだけれども。
それも障がいのある人も含めていろんな人がいる世の中でいい理由の一つにならないだろうか。
そんなことを考えています。