嫌なことから逃げると聞いて、反射的にちょっと否定したくなってしまうのは教員としての性なのか。もしくは自分自身が耐えることを良しとして、頑張る自分を美化してきたからだろうか。深夜にエヴァを隠れて見ていた世代だからだろうか。
「全力でゆるく生きる: 全盲女子のまったりDays(山田菜深子)」 と言う本には、嫌なことから逃げるパワーが描かれていた。
筆者は盲学校の寄宿舎が嫌で抜け出すために電車通学を練習したし、盲学校の世界でスタンダードなあん摩から逃げるために大学へ進学したし、通勤の満員電車から逃げるために在宅勤務の仕事を見つけた。
Twitterで見かけるプロ奢ラレヤーの発言もそうだけど、キラキラした自分の好きなことで生きていく話より、嫌なことから逃げて生きていく話の方が生々しさがあって共感できる。
そう考えると逃げるパワーってすごいなと思う。それはそれでアリなのかなとも。
そういえば数学と化学が嫌いで理系を選択し、センター試験の数学ⅡBでこけたから二次試験で数学なしのところにしたんだった。僕も嫌なことから逃げていた笑。
目的に向かって努力することを否定するわけではないが、努力は必ず報われるものではない。もしくは報われるまで努力をし続けるのが無理で諦める人の方が多いのだろう。
大体、自分も含めて教員はそれなりに勉強ができる側の人で、努力が報われた経験のある人ばかりだ。
だからなのか、耐えるマンな僕だけでなくとも、教育の世界では、「嫌なことから逃げるな」という言葉をよく耳にする(自分はなるべく言わないようにはしているが)。
でも、考えてみれば、嫌なことに耐えることが、必ずしも好転することを約束されているわけじゃない。
思い出してみれば、僕も嫌で嫌で仕方なかった中間管理職時代は体調がずっと低空飛行だったし…。あの当時に、嫌なことを断ったり、逃げたりした方が良かったのかもしれない(小心者の僕は、それはそれで、すごく気にして心の重荷になってしまいそうだけれども)。
自分の偏った見方かもしれないけれど、「嫌なことから逃げ出すな」とよく言う人は、しれっと嫌なことを避けて生きている気がしてしまう。
好き嫌いのない人に限って「好き嫌いなく食べましょう」とか言うのに似ている(好き嫌いのある人は、大抵、好き嫌いに対して寛容だ。そしてそう言う人は、大抵、人や仕事の好き嫌いが激しい。これも偏った見方かもしれないが)。
まぁ何が言いたいのかと言うと、嫌なことや状況や環境の辛さを知っている人は、逃げることに対してもうちょっと寛容になれるんじゃないかなということだ。
少なくとも自分はそうでありたい(もちろんいつでもどこでも必ずしも逃げることを全肯定できるわけではないけれども)。
そして、逃げた先で生き生きと過ごす人がいることもわられちゃダメだと思う。
人生何がどうなるかなんて誰にもわからないのだから。