職場の先輩と話していた話題。
その先輩はこう言う。
「僕は教育の正解って見つけたくないんですよ。だって正解を見つけちゃったらそこで成長が終わっちゃう気がして」
僕は支援学校に勤務している。
今の勤務先は知的障がいの子どもたちを対象にしていて、自閉スペクトラム症やADHD、ダウン症などの子どもたちがいる。
子どもたちと関わり、支援していくために、僕たち教員は学び続ける。それが教員としての立場であるし、少なくとも僕自身はそうありたいと思っている。
子どもたちのもつ障がいの特性や指導の理論、具体的な方法を学ぶと僕の引き出しの中に知識や技が増えていく。
僕も先輩の意見に賛成だ。
確かに学ぶことで、引き出しは増えていく。
でも仮に同じ障がいであったとしても、全く同じ人間はいない。身体、生育歴、性格、好きなもの、それぞれが違う。
だから、例えダウン症について学んだって、その学んだことの全てがどのダウン症の子にも当てはまるわけではない。
僕たちは学んだ知識や技の中から、その子に役立つものが何かを探し当てられるよう、いろいろと試行錯誤を繰り返す。
だから、教育に絶対の正解は無いと思う。
現状での最適解と思われるやり方は見つかっても、それは正解ではないかもしれない。
たまたま思いつきでやったことが、ミラクルな感じで上手くいくこともあるし、これはと思ったら会心の一撃が空振りすることもある。
何がヒットするかはやってみないとわからない。
ある程度、経験を重ねると、自分のやり方、スタンスみたいなものが染み付いてしまう。
指導が生きた、効果があったという経験は、自信にもなる。その自信が与えるプラスの影響ももちろんある。
一方で、その自信が過剰になりすぎると弊害も出てくる。
「正しいはずの指導が通用しないのは、子どもや保護者な周りの教員や環境が悪いせいだ」というダークサイドに堕ちてしまう。
大事なことなので、何度も繰り返すが、教育における唯一の正解はない(と僕は強く思う)。
あえて言うなら、子どもの数だけ正解はあるし、正解は時代や場所、文化なども含めたそのタイミングによって変わりゆく。
もちろん全ての子どもに対して一から正解を求めて、ひとつひとつ試していくには時間がかかりすぎる。
なので、色々な角度から切り取った最大公約数的なものである、理論や実践を僕らは学ぶ。
確かにそれらは大多数の子には効果的なものなのだろう。
でも目の前の子にとってはどうかはわからない。
その中に正解があると信じて、1つずつ試していくのだ。
きっとその作業に終わりはないのだけれども。