本の感想。
「しないことリスト(pha)」 という本を読んだ。
一番インパクトがあったのが最初の見開きのページ。
世の中に氾濫している「正しさ」に押しつぶされて息ができない、そんな感覚に陥る。
世の中には正しさが溢れている。
- 仕事ができたほうがいい
- 恋人や家族がいたほうがいい
- 仕事と家庭を両立したほうがいい
- 誰とでも仲良くできるほうがいい
- 毎日運動するほうがいい
- 夢があるほうがいい
- 健康には気を使うほうがいい
- 流行は抑えておくほうがいい
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でもそんな当たり前のような正しさは、実は当たり前じゃないんだとこの本は教えてくれる。
よく啓発本なんかには「時間はお金を出してでも買え」なんてメッセージが溢れてるけれど、phaさんは違う。
お金と時間には互換性がある。お金がなくても時間に余裕があれば補える部分も多い。
のんびりと散歩がてらに安いスーパーに買い物に行って自分で料理を作れば、安く美味しく健康にいいものが食べられる。
本や音楽などの娯楽も、ちょっと手間をかけて古本屋や図書館などを回れば、お金がなくても楽しめるものはたくさん見つかる。古本屋の一〇〇円コーナーで面白そうな本を「掘る」のも楽しい作業だ。
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僕にとってはお金があることより時間があることの方が重要だった
みんなそれぞれに合うような生き方のパターンがあっていいはずなのに…目まぐるしく進む社会のペースに惑わされずに、自分のペースに合った暮らし方を探す方が生きやすくなるのかもしれない。
他にも印象に残った部分を引用する。
「がんはるのは無条件でいいことだ」という精神論をまず捨てよう。がんばることもいいけど、それよりも一番いいのは「がんばらないでなんとかする」ということだ。
ラリー・ウォールという有名なプログラマが言ったこんな言葉がある。
「<怠惰Laziness>
<短気Impatience>
<傲慢Hubris>は、
プログラマにとっての三大美徳である」
怠惰、つまり怠けることがなぜ美徳なのだろうか。それは怠け者ほど仕事をやりたくないので、どうすれば早く効率的に仕事を終わらせられるかを真剣に考えるからだ。
日々頑張ることを強要される学校教育のあり方を考えさせられる。それと同時に、寿司屋のバイトに明け暮れ、出席日数を計算してギリギリまでサボっていた高校時代からの友人を思い出す。そう言えば「カンペをつくったけど、つくっている間に内容を覚えてしまった」とか言ってたな、アイツ笑。
「仕事というのは、イヤなつらいことを歯を食いしばって、ひたすら耐えてがんばってこそ成果を残せるのだ!」みたいなことを言う人がたまにいるけど、そんな変な話はないだろうと思う。
人生はそんなマゾゲーじゃない。
大体、そういうことを言う人は、その人自身が「つらいことに耐えて何かをがんばる」というのが好きなだけで、単に個人の性癖だ。
そういう人がそういう主義でがんばるのは別にいいんだけど、普通の人にそれを押し付けたり、普通の人がそれをマネて、「つらくてもがんばらなきゃ」って思ってしまうと不幸になる。
そう、飲みたいコーラを我慢メシのように我慢してから味わう僕はマゾゲー寄りなのかもしれないけれど笑、それを強要してはいけないよね。みんな違うのが当たり前だもんね。
ある日ネットを見ていたら経営コンサルタントの大前研一さんの次のような言葉を見つけて、「確かにそうだな」と納得した。
人間が変わる方法は3つしかない。
1番目は時間配分を変える。
2番目は住む場所を変える。
3番目はつきあう人を変える。
この3つの要素でしか人間は変わらない。最も無意味なのは「決意を新たにする」ことだ。
人が考えることや行動することって知らず知らずのうちに環境に影響されているものだ。普段の生活で目にする、住んでいる家や街やまわりにいる人たちが、思考や発想の自由さを制限する。
だから、何かに行き詰まったり、何かを変えたいと思うときは、「気持ちを入れ替えて頑張ろう!」と精神論で自分を変えようとするよりも、まわりの環境を変えた方がいい。
危うくこの本を読んで決断しそうになった笑。
僕はまだ自分を過大評価していたみたいだ。
ポジショントークというと、一般的には「偏ってる」「よくない」みたいなイメージがあるけど、結局、人間は自分のポジションを基礎にしてしかものを考えられないので、ポジショントークを肯定的に捉えることが大事だと思う。それが他者の存在を肯定することにもつながる。
世の中にはいろんな人がいて、それぞれのポジションにないと見えないものがたくさんある。
だからいろんなポジションのいろんな考えの人が存在してそれぞれが意見を交換できるように、人間はこんなにたくさんいるのだ、と考えよう
自分に見えないものが彼には見えるし、彼には見えないことが自分には見える。
たくさんの人がそれぞれに世界を見て、ものを考えて、その意見を交換したりぶつけ合ったりして影響を与え合って、多様な物事が生まれて変化していくというのがこの世の面白いところだ。
逆に、みんながみんな自分と同じ顔をして自分と同じ考えを持った世界を考えてみるとゾッとするだろう。そんな世界だったら僕ならすぐに自殺してしまいそうだ。
今読んでいる「予想通りに不合理」という本の内容を思い出す。人間は自分が思っているほどには優秀で万能ではないのだ。
phaさんはどこでそれに気づいたのだろうか。
僕は今36歳だけど、30歳くらいから、「もうこれからは余生だなー」という感じがあって、そんなつもりで生きている。
もう興味のある事は大体やった気がするし、そもそも自分みたいに怠惰で不健康なダメ人間はそんなに長生きしないものだ、と思っているからだ。
僕の年上の知人で、東南アジアと日本を行ったり来たりしながら生活している人は、「義務教育を終えたら余生」と言っていた。
それを聞いたときは、僕はそこまで早くは悟れなかった、負けた」と思ったけれど。
今同じく36歳の僕はどんな余生を生きていくのか。いろんな縛りがあるので、phaさんほど自由ではないのかもしれないけれど。
結局のところ、全ては正しくて、各々にカスタマイズされた正しさがを身に纏い僕らは生きていくのだろう。
なのにどこかで自分が選ぶべきはずの正しさに引っ張られ、自由を失っているから生きづらさを感じたりするのかもしれない。
大概のことはしてもいいし、しなくてもいいのだ。
自由であるが故に他人が決めた正しさに縛られてしまう不自由な檻の外でごろごろしているphaさんの顔を眺めれば、檻なんて最初からなかったことに気づけるのかな。
もちろん檻がないから飛び立つのも飛び立たないのも自由でありどちらも正しい。はずだ。