最近学校の教室整備、片付け、不要なものの廃棄、わかりやすいラベリング、整理整頓をしている。
「職員室のモノ、1t捨てたら残業へりました!(丸山瞬)」 という本の実践だ。
筆者は以前からTwitterで職場での実践や整理術についてさまざまな発信をされていて、自分も触発されコツコツと教科の資料室の片付けを進めてきた。
そして2月に販売されたこの本を読み、そして現在は学部の教室の片付けに取り組んでいる。
自分の家でもそうなのだが、「もったいない」
「またいつか使うかもしれない」というもったいない精神(それは日本人の美徳でもあるのだけれど)故に、人はモノを捨てずに残す。
そして大抵、どこまでを保管して、どこからを捨てるかというラインを事前に決めることはなく、ズルズルとモノが増えていく。そしてキャパをオーバーし、とりあえず空いている場所に捻じ込む方式の収納が進められてしまう。
こうなってくるとどこに何があるのかがわからなくなる。
捨てるモノと捨てないモノの境界がなくなり、捨てられないモノが溢れる。
みんなが気になるけれど手を出さず、モノが膨れ上がる。
そうして混沌が生まれていくのだ。
混沌はどこに何があるのかわからない状態、あるいはどこに(どこかに)あるのはわかっているけれど、容易には出せない(見つからない)状態を生み出す。
こうしてくると作業の効率は悪化し、結果として無駄な時間が浪費されていく。
筆者も言っているようにこのような混沌を生み出さないためのポイントは、不要なものは捨てる(そのための仕組みを作る)、モノがどこにあってどこに返すのかが分かるように帰る場所を用意するということが大事なのだと思う。
そう考え、未開封のまま少し黄ばんでいたような生徒貸出用の肌着などは、必要な量だけ確保し、後は処分ないし、保健室や他学部などの必要なところへ配るということにした。
引き出しにはラベルを貼り、何がどこにあるってどこに収納するのかが文字通り一目瞭然になるようにした。
そんな作業をしていたときに、あるベテラン教員がその肌着に興味を持ち「もったいない」とのことで少し手に取られた。
しばらくそのまま過ごし、退勤前に「やっぱりいらないかな」と言って、以前の何でも突っ込んであった引き出しには収納しようとした。
当然引き出しは片付けて空である。
僕がその棚のものは既に片付けて、肌着類は必要な量だけ確保し、後は処分ないし、保健室や他学部などの必要なところへ配ることになっていること、必要な肌着類はラベルを貼った引き出しに既に収納していること、肌着の引き出しは既にいっぱいで追加して入れる余地がない(だからこそ処分しようとしているのだけれども)を伝えた。
「そうなの」と言ったそのベテラン教員は、「ここなら入るかな」と言い、水着とラベリングされた引き出しを開けると、自分から手に取った肌着(どうするつもりだったのかはわからない)をその水着の棚に無理やり捻じ込み、持って帰ってくださいと伝えた教室内の私物はそのままに教室を出ていった。
その30秒ほどの間、何も言葉が出なかった。
そう、こうやって混沌が生まれていくのだ。
図らずとも混沌が生まれる瞬間を目の当たりにした僕は衝撃を受けたと同時に諦観の念にも包まれた。
そうだ。当たり前だけれど、いくら制度や環境を整えてもそこにいるのは人だ。
人の意識や態度、行動が変わらなければ、根本的には何も変わらないという人的環境のユニバーサルデザインの重要性を再確認させられた。
まぁでも片付けますけどね。
この先も続くかどうかはわからないけれど、ある意味ではこれも僕の実践の一つなので。