「試練は変えられる人のところにしか現れない」という言葉があるが、それは本当だろうか。
そんなことを言うのは試練を乗り越えた人だけではないだろうか。
そして試練を乗り越えられたのは、その人の頑張りのおかげだけなのだろうか。
周りの環境は、タイミングや運は、その人の元々の能力や才能は関係ないのだろうか。
試練を乗り越えていった人たちの華々しい輝きの後ろには、試練を乗り越えることができずに散っていった人たちが積み重なってできた影と深い闇があるのかもしれない。
まぁ何が言いたいのかというと、僕自身がこの言葉に励まされたこともあれば、絶望の淵に立っていたと思ったのにそこから突き落とされたこともあるからだ。
言葉というものは不思議なものだ。
「お客様は神様です」
これはかつては店側の言葉であった。
お客様は神様ではないけれど、神様のようにおもてなししようという店側の意識というか理想を表した言葉だった。
それが時を経るうちに、客側が「俺たちお客様は神様なんだろ」という論理で考えるようになった。金を払っているんだから(その金額が求めるサービスと釣り合っているのかどうかは分からないが)、横柄な態度な過度な要求をしても構わないという風潮に変化した。
本来であれば客と店は対等の関係、売買契約関係にあり、どちらも納得しなければ契約を結ばない(拒否する)権利を持っているはずなのに。
言葉は生モノなので、どんどん変化していくのだ。
「試練は変えられる人のところにしか現れない」
これは最初はどちら側の言葉であったのだろうか。
モーセのように、あるいはアブラハムのように神から過酷な試練を突きつけられた本人の言葉なのか。
それともその周りの人が励ますために発した言葉なのか。
僕自身の話に戻すと、自分自身から発したり、天啓のように、あるいは運命のように受け止めたこともない。
僕がそこまで信仰心を持ち合わせていないからかもしれない。
反対に周囲の人から言われることもあった。
大抵は腑には落ちないのだが、この言葉に翻弄されたであろう人たちが、この言葉を発さずに試練に耐えているときに、僕の心の中にこの言葉が浮かんだ。
当然僕からは言わない。
でもそんなときに、「試練は変えられる人のところにしか現れない」という言葉は存外あるのかもしれないなと思わされるのだ。