本の感想。
『木曜日にはココアを』という本を読んだ。
ココア、幼稚園、結婚、青い下着、新婚旅行、サンドイッチ、魔女、緑、ジャカランダとサクラ、そして恋文、それぞれの物語がなにかと繋がり、いつの間にか大きな流れの中にいたことに気付かされる。
伊坂幸太郎さんもそうだけれど、短編集だけれどもどこか繋がっていて一つのストーリーを紡いでいくような小説が好きだ。
昔は単純に面白くて読んでいたけれども、今はそれだけではなくて、自分も含めて全ては繋がっているんだということを再確認できるのがいいなと思うようになった。
僕がお世話になったあの人にも、正直言ってもう関わりたくないあの人にも、当たり前のようにその人なりの世界と歩んできた道のりがあって、それはまたどこかの誰かと繋がっている。
自分のセカイとは関係ない人だと切って捨てること、セカイから締め出すことはできるかもしれないけれど、この世の中は全部が繋がっていて、だから本当の意味では世界のどこかで繋がっている。
「全てが繋がっている」なんて言葉は友人や妻、親族なんかとの出会いや思い出を連想するのだろう。
僕は、教員という仕事柄、それに加えて今まで関わってきた子どもたちを思い浮かべる。
本の中には、いろんな人と人とを繋いでいくマスターという登場人物がいる。
マスターのような人物が、人と人との縁を紡いでいく一方で、思い出にも残らない出会いや、もう二度と思い出したくない人もいるのだろう。
自分はどうなのだろうか。
自分の名前には「神様が助けてくれて幸せになる」という天佑紳助から由来する意味が込められている。
結婚式のスピーチでその名前の由来について話したとき、父親と内容が被ってしまったのだけれども、僕はその「神様」は僕の周りの人たちだと思っている。
僕自身は多くの人たちとの縁によって助けられてきたし、これからも支えてもらうのだろう。
でもそれだけでなく、自分も誰かを支えることができているのだろうか…そんなことをふと考える。
伊坂幸太郎さんの『終末のフール』という本に「かわりに、おまえもいつか、誰かを許してあげなさい」という言葉が出てくる。
僕の好きな言葉だ。
なら、たくさんの人に支えられている僕は、いつか誰かを支えないといけない。
今まで出会ってきた人たちにとっても、これから出会う人にも、いつも周りにいる子どもたちにとっても、そんな存在であれたら。