「わからないから勉強嫌い」というのはよく聞く話。僕も高校生になって、わからないから数学が苦手になった。
でも、わからないは、考え方のプロセスを確認したら、より深く理解するための鍵になる。
教員という立場では、間違いは発見の宝物だ。
その子の間違えた解答を見て、考え方のプロセスをたどる。
繰り上がりを間違えたのか、筆算の位が1つずれたのか、文章題を理解できていないのか、間違いを見ることで、その子が間違えた原因がわかる。原因がわかれば、どこを確認すればいいのか、どう対策すればいいのかがわかる。
間違いの罠に気づかずに、たまたま正解していただけの子もいる。そんな子に間違えた子の原因を伝えることが、気づきにつながる。
以前のブログよしわるしの話 - メガネくんのブログでも書いたが、逆になんでもわかる人というのは、わからない人の気持ちがわからないという欠点も持っている。
僕自身は知らないことがあるとすぐに、スマホで調べる癖があるのだが、わからないこと、知らないことを調べることで、知識が増え、色々な知識が繋がり、さらなる疑問が出てきて…と繋がっていく。
わからないは、より深くわかることへ続く一歩だ。
だいたい僕たちはわかっているつもりでいるけど、深く学んでみたり、嫌われ者のソクラテスがしたように、知っているつもりのことに関して質問を重ねられると、自分は思ったよりも知らなかったことに気づく。
無知の知を実感する。
ここまでわかるとかわからないとかについていろいろ書いてきたけど、誰にも解けないほど固く結ばれたゴルディアスの結び目を皆がわかるとかわからないとか言っているのを無視して剣で切ってしまうようなアレクサンドロスが実は最強なんじゃないかという気もしないでもない。
わかるとかわからないとか考えるよりも行動できる方が強い(場合もある)ということなのかも。