今年の卒業式の退場のとき、担任していた生徒がボソッと「俺って(今年の)4月から結構変わってんな」と言った。
その子は4月から比べてすごく変わった。
多くの人は自分が変わりたい、もっと良くなりたいと心の底では思っている。
でも現実は思うように上手くいかない。
変わるためには「できない自分」を一旦、受け入れないといけない。
その上、何でもかんでもすぐにできるようになるもんではない(もちろんすぐにできないことだから人は悩むのだろうけど)
だから大半の人は、諦めたり、できない理由・やらない理由を探して掲げる。他者(家族や教師に向かうことが多い)のせいにすることもある。
4月に出会ったときの口癖は「どうせ…」「めんどくさい」「知らん」だった。
どうせやってもできないから、やらない。
めんどくさいから、やらない。
どうしたらいいかわからないから、やらない。
やらないための理由、免罪符を必死で探しているように見えた。そうしないと「できない自分を認めたくない気持ち」と「押し殺しているけど、本当はできるようになりたい、変わりたい気持ち」に押しつぶされそうになっていたのだろう。
彼には自分の人生を自分で歩いてほしいと思った。
自分の道を自分で歩いて行ってほしかった。
教師という立場でできることは、きっと限られているんだろう。
人は自分で納得したことしか取り入れない。
なら、結局変わるためのもとは本人の中にあったのだろう。
僕はきっかけを投げただけだ。
いや、それ以上に結構厳しい指導もした。
かなり厳しい指導もあったかもしれない笑
無理やり変えようとした部分もあっただろう。
ただ、長いお説教の後も、厳しい指導の後も、具体的なやり方を提示した後も、伝えたのは「結局はするかしないかを決めるのは自分、なぜなら自分の人生だから」ということだ。
厳しい言い方で、おどけた調子で、このことは繰り返し伝えた。
卒業式のその日にも伝えた。
「君たちの人生なんだから、どうするのかは、自分で考えて悩んで決めてください。僕は君たちがもっと頑張って成長していけると思っています。だから厳しい指導もした。後は自分でどうするのか決めて、自分の人生を歩いていってください。ただ矛盾するようだけど、頑張るだけでなく、遊んだり、楽しんだり、サボったり、悩んだり、相談したら、やらなかったりということも大事にしてください。君たちの人生なんだから。特に本当に無理なときに相談できる人は絶対に必要だからつくっておいたほうがいいよ。」
そんな感じの内容だ。
教育には洗脳という面もあるんだろう。
でもそうはしたくなかった。
結果は同じなのかもしれないけど、自分で考えて選んで決めて欲しかった。
自分で決める経験をするための体験として強要したことはあったけど。
徐々にではあるが、できない自分を諦めるのではなく、変わるためには少しずつ歩みはじめた。彼らにはできると思った。だから背中を押した。
彼らが変わっていったと、同僚や保護者からも言われた。本人も照れ臭くてなかなか認めないけど、変わったことを自覚していた。
卒業したら、同じようにサポートがあるかどうかはわからない。
誰が関わってもできることがゴールだ。
そう思ったけど、まだまだの部分が多くて、自分の色は抜けなかった。
でも種は蒔いた。
後は本人がどうするのか。
この先が楽しみだ。