ホーキング青山さんの「考える障害者」という本を読んでからモヤモヤ。
健常者という人たちばかりに障がいについての理解を求めるだけではいけないのではないか。
義務のようになってはいけない。
負の思いが溜まっていく気がする。
べき論には大きな反発があるのも事実だ。
例えば障害基礎年金や無料乗車証、税の減免などの話、合理的配慮の話、例えば重度脳性麻痺の方が定員割れの高校を2年連続で不合格になった話などなど、子育てや生活保護の話なんかと通じる部分があると思う。
でも現状のままで置いておくのもいけない。
知らないことが理解できないことにつながる。
目の見えない・見えにくい人が白杖で歩くことは、肢体不自由のある方が車椅子で歩くことは迷惑なのだろうか。
それらは障がいのある方にとって必要な道具だ。
『ヤンキー君と白杖ガール』にあったように、僕たちは飲み物を飲むときにコップを道具として使って飲む。
コップなしに飲めと言われたら困ってしまう。
白杖や点字ブロック、スロープや車椅子はその人をたちにとってコップと同じ必要な道具だ。
そう考えられないだろうか。
子どものベビーカーもそう。
その人の立場にならないとわからないことは多い。障がい、貧困、子育て、高齢など。
人は知らないことを怖れ、自分の立場から相手を批判する。
でも「障害のことを知っておくべき!なんでそんなことも知らないのだ!」と上から目線になったり、啓蒙してやるという立場は違うと思う。
反発も起きると思う。
どこまでが必要な配慮や支援で、どこからが過剰な配慮や支援、言い換えればえこひいきなのかのラインを引くのは難しい。
合理的配慮の難しさでもあり、明確なガイドラインが進まない原因でもある。
障がいと関わりのあると感じている人はまだ多くはない。
障がいはまだまだ未知の領域なのだ。
だから障がい者の権利、合理的配慮について求めていくことも大事。
障がいについて知ってもらうことも大事。
でも国や自治体、企業の予算には限りがあるのも事実。
なんでもかんでもサービスを提供はできない。
生活保護なんかと一緒でどこかでラインを引かないといけない。
どこがラインになるのかは難しい。
福祉の財源になるのは税金だ。
行政学では、「福祉の磁石」という言葉がある。ある市が福祉政策を充実させると、他から福祉を必要とする人が集まってくる。それらの人の大半はあまり収入がなく貧しい。それらの人が増えてくると、元からその市に住んで納税していた人は、自分に直接還元されない福祉に多額の税が投入されることに納得できなくて、その市を出て行く。結果として、その市の税収は減り、しかし福祉関係の支出は増え、財政が破綻するという内容だ。
税金を財源にしている以上、納税者の声を無視することはできない。
もちろん必要なのはお金のかかるハード面だけでない。
障がいへの理解や配慮などソフト面でカバーできる問題も多い。
そのためには障がいを知ること、自分の世界のこととして捉えることが大事だと思う。
でも障がいを神聖化するのもよくない。
障がい者だって人間だ。
人間なのでいろいろな考え方の人がいる。
障がい者が全員真面目で困難さに向かって日々努力しているなんてことはない。
それは作られた障がい者像だ。
一方で、日常的に関わっているから、自分たちしか障がいを理解できる人はいないと考えるのもいけない。
『考える障害者』を読んで僕自身がそうならないように戒めないといけないと感じた。
そんな考えが当事者と社会の壁になってしまうかもしれない。
だから、障がい者がどんどん社会に出ていけばいい。
トラブルは日常茶飯事だろう。
でもそうやって関わらができる中で、関係性ができ、想像上ではない等身大の障がい者がわかるのではないだろうか。
もちろんいい人ばかりではないこともよくわかるだろう。
そうやってお互いのことを知ることが必要なのではないか。
障がいに関する知識だけでなく、いろいろと話をするのがいい。
実際に障がいと関わって知ることをスタートに、いろんなことを考えていけばいい。
逆に障がい者は社会に出て、いろいろな考えや制約を知る方がいいだろう。
どちらか一方だけの問題じゃない。
決まった解決策はないし、みんながみんな納得するのも無理だろう。
理解や納得は強制するものじゃない。
別に分かり合えないことだってあるだろう。
僕自身はお互いにわかり合って欲しいなとは思うけど。
違う世界の人間じゃなく、同じ社会に生きる存在なんだと実感するのが大事だと思う。