先輩教員との話から。
その先輩は、自分で自分のことをする自由や快感を「自分で自分の背中をかく快感」と子どもたちに説明しているそうだ。
当たり前の話だけど、自分の背中のかゆい部分の場所やちょうど良い力加減が正確にわかるのは自分だけだ。
他人に任せると場所がずれたり、力加減が強すぎたり弱すぎたり、なんだかしっくりこないものだ。
この自分で背中をかく快感が、いろんな物事を自分で自由に選択し、自分のペースで行える心地よさにつながっていく。
自分だけでできるなら、自由にできる。
気遣いやわざわざ「ありがとう」という必要もない。時間や場所も選ばない。
他人に任せるとそうはいかない。
ヘルパーは決まった時間にならないと来ないし、人によってクオリティも異なる。何より自分のペースでできない。
「なんでそんなことまでしないといけないんだ」と断られることもない。
自分でできることと、それを自分で選べる自由は誰でもが手に入られる訳ではない。
特に障がいのあるこの場合、様々な困難が付き纏うし、環境や道具を工夫しても、スキルを手に入れて自由に使いこなすには時間がかからしい訓練は大変だ。本当に大変だ。
だから、獲得できた快感や自由が次の頑張りのモチベーションになる。
僕も先輩も、基本的には子どもたちが自分のことを自分でできるよう関わっているし、自分のことを自分で選んですることはとても大事なことだと思っている。
学校は勉学だけでなく、そのような考え方や具体的なスキルや便利や道具を活用する方法を学ぶ場所でもあると思っている。
でも、長い間周りの人に身の回りの世話をされて育ってきた子どもは、自分で背中をかくことより、他人に背中をかいてもらうことの方が快感になってしまう。
自分で頑張ることの負担が大きくなり、やってもらうのが当たり前になってしまうのだ。
もちろん、身の回りのことをお願いしてまで頼る必要はない。本人のやりたいことや健常の子と同じように勉強を優先させるべきだ。もっと社会の制度が充実して、できないことをサポートするべきだという意見もある。
どこまでその子ができるのかという見極めはとても難しいし、その子の能力やこちらとの関係性以上にやらせることは、その子を追い込み多大な負荷をかけすぎることにつながる。
僕らの考え方は古いのかもしれない。
現実の社会では、頑張ってスキルを覚えるより、福祉制度や他人を頼れる便利な世の中になってきている。
あと30年もしたら、AIの力で、自分の身の回りのことを自分ですること自体がナンセンスな世の中になってしまうのかもしれない。
村上春樹の言う、手作りの真空管アンプのようなものなのかもしれない。
でも、僕らはそれが人間の尊厳につながる自由だと思う。
もちろん、するしないを選ぶのは本人だ。
でも僕らは本人の意思決定に関わる非常に重要な立場にいる。
きっとあと20年は自分のことを自分でしないといけない世の中が続くだろう。
でも、その後はどうするのだろうか。
人間は何を選ぶのだろうか。
30年後の人間は、自分で自分の背中をかいているのだろうか。
ナノマシンの制御で背中のかゆみという概念自体が存在しないかもしれないけどね。
ちなみにクロムハーツの孫の手は236,900円だそう。