特別支援学校という現場で働いていると、保護者からの希望や期待、あるいは手厚い支援の要求を感じる機会がある。
時代の流れだと思うし、支援学校と言っても全ての教員が支援の専門性を高い水準で持っている訳ではないのでそうなるのだろう。
保護者は誰が担任になるのか一喜一憂し、評判のいい教員、信頼できる教員、ベテランの教員に喜び、関係のできている教員がそのまま持ち上がることを期待する。新任など経験のない教員は落胆されることが多い。
でもここで考える。
子どもの目指すべきゴールは何なのか。
もちろんその子によって到達できるゴールは異なる。
でも目指すべきは、極端にヤバい教員を除いて誰が担任でも「自分で自分をコントロールして、自ら行動できる」ではないのだろうか。
支援が必要なときに、与えられるのを待つのではなく自ら依頼することができること
困ったときに、悩みを聞いてもらうのを待つのではなく、自ら質問し、また相談できること
知らないことや興味のあることについて、教えられるのを待つのではなく、自分から調べられること
宿題を出されるから勉強するのではなく、自分で自分の課題を分析して計画的に勉強すること
それらが目指すべき姿じゃないのか。
誰が担任でも、いや担任や教員がいなくても自分でやるのが理想のゴールだ。それは教員、保護者、そして子ども本人が共有しておかなければならない。
もちろん子どもそれぞれに実態は異なるし、目指すべきゴールも異なる。上記のゴールを目指せる子、そうではない子がいるのは当然だ。
でも今そこにいる子どもだけではなく、目指すべきゴールを意識したときに、保護者の失望はチャンスに変わる。
慣れ親しんだ担任が変わるということは、新しい人と関係をつくる練習をするチャンスになるかもしれない。
支援のことを知らない人と接するということは、これから出ていく、支援のことをまるで知らない人だらけの世間に慣れるチャンスになるかもしれない。
新任の不慣れな教員が担任することは、厳しくない環境で子どもが自律するチャンスになるかもしれない。
保護者の方は、今現在の子どものことをに目を奪われることが多いだろう。当たり前だ。
その保護者といかに信頼関係を築き、先のゴールを見据えた道を示せるのか。
先の進路や10年後、20年後に対する知識も含めて、教員に求められる専門性なのだと思う。
ただ、個人的にはAI革命によって身の回りのことの多くを機械がやってくれる時代が30年以上先には来ると思う。
そのときのことも考えておかないといけない。
そんなの考えられるのだろうか…。