本の感想。
『死にたいけどトッポッキは食べたい(ペク・セヒ)』という本を読んだ。
この本は気分変調性障害(ひどい憂鬱症状を見せる主要憂鬱障害とは違い、軽い憂鬱症状が続く状態)にかかった私の治療記録をまとめたものだ。
繰り返される私と医師の対話。
それを読んでいて、大学一回生の頃の自分に自信のない「優しさコンプレック」だった自分の姿が重なる。
深刻なまでに自分と他人を比較して、自己否定をする自己肯定感の低い私。
友人関係に恐怖心を持っている私。
友だちの一挙手一投足に注目し、自分の評価を極端に気にする私。
些細なことで自分なんてダメなんだと絶望する私。
過去も現在も将来も、何事に対しても悲観的な私。
定期的に何もかも投げ出したい憂鬱な気持ちになる私。
自分の過去を見ているようで医師からの言葉が自分自身の胸にも突き刺さる。
…あなたは依存傾向が強いようですね。感情の両端はつながっているので、依存傾向が強い方ほど、依存を嫌います。例えば、恋人に依存している間は安定感を感じる一方で不満がたまりら恋人から解放されると自立性を得られる代わりに不安感と空虚感に苛まれる。
羨ましいというのはわかります。誰にでも理想というものはありますから。でも、人を羨むのと、自分を卑下するのは別の問題ですよね。今は憧れ程度で、それほど深刻ではないようですが。
……今のあなたはまるで自分の人生と過去が失敗だったみたいに思っている。でも、子供の頃の基準からすれば、今の自分はとても成功しているともいえるんです。
……
他人とばかり比べるんじゃなくて、自分自身と比べて欲しいですね。
診察室で面と向かい合って自分自身に言われているような想像が湧いてきて、羞恥心と悔しさと諦めに似た感情が混じり合ったようなんともいえないドロドロした気持ちになる。
でも本を読み進めるうちに、私の姿は、僕ではなく、これまで関わってきた子たちの姿に重なるようになる。
極端なゼロヒャク思考に対する医師の関わりは、感情の温度計で0度と100度から50度など温度を増やしているソーシャルスキルトレーニングに似ている。
本人の思考の偏りというか癖を認知してもらう問答も、別の選択肢を提示する関わりも、物事を別の角度から考えるリフレーミングも、いろんな子たちと取り組んできたものだ。
あるキレやすい子と作った自分の説明書が思い浮かんでくる。
もしかしたら僕もこの医師のような役割を少し果たせたのかもしれない。
そう思うと少し救われた気がする。
こんなに冷静でもなく、子どもたちからの怒りや苛立ち、無気力感、憂鬱を受け止められてはこなかったけれど。
「【学校の本質は工場】です」というツイートを思い出す。
均質の子どもを6年間という
レーンに乗せて製造する工場異質とされるものは排除され
同じような価値観の製品をつくる工場社会が求める水準の人間を作り上げる
ただの工事
それが学校の本質
理想とされる型が確かにあるのかもしれない。
型の枠に入れば少し生きやすくなるのかもしれない。
でも、型の形そのままの人はいない。
不完全な形。
でも完全な人はいない。
人は誰でもみんな不完全な一人の人間であり、その人が同じく不完全な一人の人間である治療者と出会い、交わした対話の記録です。治療者として失敗や後悔は残りますが、人生はいつもそういうものだったのですから、著者と私、そして皆さんの人生だって、今よりもよくなる可能性があるのではないかと、自分を慰めています。どうか、多くの挫折で落胆され、不安の中で一日一日を乗り切っておられる、この本を読まれる読者の皆さん、昨日までは見過ごしていたけれど、自分が発しているかもしれない、もう一つの声に耳を傾けていただければと思います。死にたい時でも、トッポッキは食べたいというのが、私たちの気持ちなのですから。
僕自身も不完全な人間の一人として(そのことは嫌になるくらい自分でもよくわかっているのだけれども)
不完全な子たちと関わっていく。
それは子どもたちを完全な人間にするためではなく…