子どもの話。
先日子どもたちを連れてスケートへ行った。
初めてのスケートで、一周目はひざガクガクで手すりにしがみつきながら「もうやりたくない!帰る!」と言っていた長女。
まぁ友だちの声かけで再度チャレンジし出し、徐々に感覚を掴むと1番最後まで「もう一周行く!」と頑張っていた。
今まで達成してきたスイミングや自転車のコマなしや縄跳びやらの、コツコツ練習すればできるようになる経験のお陰でなのだろうか。
今回はそんな我が子の話ではなく、帰り際に隣の椅子から聞こえてきた会話について。
母「ママもっと滑りたいねんけど」
母「みんなで来てるのに、一人だけやりたくないってどう言うこと?!」
子「足痛いから…」
母「足痛くても、みんながやってるねんから我慢せなあかんやん」
母「ほんまワガママばっかり言わんといて!みんなに合わせないと!」
母「いっつもそうやってワガママばっかり言って…」
母親のワガママに対する不満の気持ちもわかるのだけれども。
そう言う場面を見ると、職業柄複雑な気持ちが湧き出てきてしまう。
- 足が痛いのを我慢するべきなのだろうか?
- 足が痛いからできないというのはワガママなのだろうか?
- 痛みを緩和する対処、例えば靴のサイズを調整するとか、分厚い靴下を履くとかはできないだろうか?
- みんなと同じことを必ずしもしないといけないのだろうか?
- 一人だけ見学してはいけないのだろうか?
- スケートがどんなものなのか、この子は見通しを持った上で来たのだろうか?
- スケートに来ることを、この子自身が選択したり、納得していたのだろうか?
- みんなに合わせるの「みんな」の中にこの子は含まれているのだろうか?多数派に合わせろという意味なのだろうか?
- みんなの中にこの子が含まれているとしたら、他のみんなはなぜやりたくないこの子に合わせていないのだろうか?
- 「ママもっと滑りたい」は母親のワガママではないのか?
…この辺りで止めておく。
が、母親の言っていることは一般論に含まれるだろうし、そういう考え方が一定あるのは僕自身もわかっている。
ただ我慢する力は、自分の要求が通らず本人が理不尽さを感じている場面を繰り返し経験する中で身につくものではないはずだ。
そうやって身につくのは我慢ではなく「諦め」だ。
もちろん全ての要求を通せと言っているわけではない。それでは「我慢」は身につかない。
要求が全面的に受け入れられる場面や、ほんの少しだけ受け入れられる場面、あるいは要求が通らない場面を通して、少しずつ自分の気持ちと折り合いをつけていく。そんな経験が必要なのだ。
満たされないものを人は他者に譲れない。
譲ってもらった経験が、相手に譲るに繋がっていく。
周りに合わせて我慢するというスキルが求められる場面は、長い人生の中で多いのかもしれない。
でも、その反面、みんなに合わせて自分を押し殺し過ぎて…そんな人はいないのだろうか。
どの親も子どものことを心配しているのはわかるのだが、自らが良かれと思ってかけた言葉が、いつしかその子を絡めとる囲いや重しになってしまうのでは…
スケート上での会話を聞いていて、「みんなに合わせて我慢するのではなく、自分のやりたいこと、できることから始めていけばいいのになぁ」と考える。
個別最適な学びが叫ばれる昨今なんだから。
特別支援教育という仕事柄、世の中の当たり前は当たり前ではないと考える瞬間がたくさんある。
「我慢しろ」というのは簡単だけれども、そうではなくいろんな環境や道具や進み方や関わり方の工夫をするのが僕の仕事だ。
そして子どもの人生の選択肢は、最終的にはその子自身が選ぶもののはずだ。
今ある常識がゴールではなく。
親が押さえつけたり、指示した通りに動かしたりするのがゴールではなく。
その子自身が選択肢を考えて選べるように。
最近読んだ本に書いてあった「教師の言うことは信じるな、そして親の言うことも信じるな、自分で考えろ」そんな言葉を伝えられる親でありたいなぁと教員で親の僕は思う。
思いつつ、この母親のように厳しい口調で叱りつけて反省する毎日なのだけれども。