本を読んで考えたこと。
『冒険の書』という本を読んだ。
この本を読んで考えさせられたことはたくさんある。多分別のブログで書くだろう。
今回紹介するのはタイトルにもある、「もし、明日死ぬとして、一言だけ我が子に遺言を残すとしたら」だ。
「もし明日死ぬとして、一言だけ我が子に遺言を残すとしたら、どんな言葉を遺す?」
なぜ僕がこのような問いを立てたかというと、この問いに答えようとすれば、僕自身がなにをいちばん大切にしているかがわかると思ったからです。
……
たった一言で大事なことなんか伝えられない。どんか言葉であれ、愛する我が子への想いをすべて表してくれるはずもない。だけど、もしこの子が一生「父の遺した言葉」として、その意味について考え続けてくれるような言葉が残せたら、親としてこれほど幸せはないだろう。
その言葉の意味はすぐにわわからないかもしれない。しかし、この子が大人になり、自分と同じように子の親となった時、「ああ、父はこのような想いで自分にこの言葉をかけてくれたのか!」と気づいてもらえたら、それがいちばんうれしいかもしれない。そんな言葉とはなんだろう。いったいどんな言葉をかけたら、「父はなぜ僕にこの言葉を遺したのだろう?」とずっと考え続けてくれるだろうかーー。
本の作者は『冒険の書』にふさわしい言葉を紹介するのだが、僕が考えたものはそんな大それたものではない。
我が子にそんな大きなものを託す気も今のところない笑。
ただ浮かんできたのは何度も読み返した伊坂幸太郎さんの小説『終末のフール』に出てくる一言だった。
「こんな娘を許してください」と挨拶をすると、父と母は愉快げに顔を見合わせて、「かわりに、おまえもいつか、誰かを許してあげなさい」と言った。
僕の名前は父と母の名前を足して割ったものだけれども、天佑神助に由来する「神様に助けてもらって幸せになる」という意味が込められている。
結婚式のスピーチで、まさかの父親と内容が被るという事態になったのだが、28年間生きてきた僕と父親とが同じように考えたのが「今の僕があるのは、神様=出会ってきた人たちのお陰」ということだ。
たまたまだが、妻の名前も「周りの人に愛される」という意味の名前だ。
だから2人で我が子の名前を考えるときに、「人との繋がり」を意味する名前を贈ろうと決めた。
長女には「人との結びつきがあること」を
長男には「人との繋がりがあつくなること」を
次女には「まことの出会いがあること」を
それぞれ意味する名前にした。
そんな人との出会いに支えられた僕から子どもたちに贈るのに
「かわりに、おまえもいつか、誰かを許してあげなさい」
これほどいい言葉はないんじゃないだろうか。
もちろん周りの人に苦しめられたり、傷つけられたりしたこともたくさんある。
でも、ギブされるから相手にテイクするのではない。
自分にできることは惜しみなくギブするのだ。
ちょっと自分が損しているのかなと思わないときがないわけではない。
若い頃はそう思っていた。
人に貸しをつくっているくらいがちょうどいいのだと。
でも、あるとき、ふと、気づくのだ。
自分が与えたと思っていたものが実はちっぽけなもので、与えたと思っている人たちからも実は多くのものを与えられていたのだと。
情けは人の為ならずという。
許すのは人のためだけではない、そのことで自分が許される。だけでなく、実は多くのものを与えられていたことに気づけるのだ。
許すなんて思わず、高校生の頃の僕はいろんなことに不満を抱きながら諦めていただけだった。
あれから大きな大きな失敗を繰り返したからこそ、多くの人に許してもらったからこそ、何かを許せる今の僕がいる。
我が子たちもいつかその意味に気づく日がくるのだろうか。
いつか我が子たちが大きな失敗をしでかしたときに。
「かわりに、おまえもいつか、誰かを許してあげなさい」と言える自分でありたい。
そんなことを思いつつ。