本の感想。
『ことばは光(福島 智)』という本を読んでいて考えたこと。
著者の福島さんは、盲ろう、全く見えず聞こえずの世界にいる。母親が考案した指点字を使って学び、日本で初めて大学へ進学し、大学教授になった方だ。
読んだ本の中で「愛される障がい者」について言及された部分があった。
かつて、「愛される障害者になれ」ということがよく言われた。いまもそういう雰囲気はある。これはおかしな主張だ。たしかに、人に憎まれるより愛されるほうがよいかもしれない。しかし、それは障害とは無関係だ。そもそも、障害の有無に限らず、そんなことをとやかく言われるのは大きなお世話だ。 仮に、性格が暗くて、ひねくれた、いやな障害者がいたとして、それでもその人が最低限、人間として生きていけるような社会、そんな社会の懐の深さが欲しい。
支援学校で働く僕も「愛される障がい者になりましょう」なんて言葉を聞くことがある。
別に障がいのあるなしに関わらずなのだけれども、確かに周りと関係を築ける人の方が生きやすいし、助けてもらえるし、楽しみを感じる場面は多いだろうなと思う。
我が子に関しては「ありがとう」を言うようにクドクド注意してしまう。それはうちの子たちが世を渡っていくときに困りにくくなるだろうなという打算といろんなことへの感謝を忘れてほしくないという僕個人の信条のようなものからくる行為なのだろうか。
確かに「愛される子になってほしい」という想いはある(もちろん誰からも愛されることなんてあるはずがないのだけれども)。
でも…心の中で思ってしまう。愛想よくニコニコして、何事にも一生懸命頑張って取り組む…そんな周りの人間が勝手に考える理想の障がい者像でなければ愛されないのはおかしいんじゃないのか、と。
障がい者が障がい者手帳を持っている人を意味するのなら、僕は大学の障がい児学童やボランティア、ガイドヘルパーのバイト時代からいろんな障がい者と接していた。
テレビや本で見る遠い世界、汚れのない愛される障がい者しかいない世界なんてないのはすぐに気づいた。
当たり前だ。人間なのだからそれぞれだ。
愛想がいい人もいれば、愛想の悪い人もいるし、そもそも人と関わるのが好きではない人もいる。
愛想のいい人や頑張っている人が応援されるのは世の常なのかもしれない。
でも、誰にだって愛想を悪くしたり、頑張らないでいる権利はある。
親や教員という立場にいると「この子のためにこうした方がいい」という善意から勘違いしていろんなことを子どもに強要してしまいがちだ。でもそれは「その子のため」という衣を纏った自分のエゴや世間体の押し付けになっていないか。
その子のことを決めるのはその子自身なのだ。
そして、日本では法の下の平等を謳っているのだから、「(周りから見て)愛想がいい/悪い」や「(周りから見て)努力している/していない」で受けられるサービスが変わるのはおかしい。
そして僕たち教員が公立の支援学校で働くプロなのだとしたら、
(実際はなかなか難しいのだけれども)「愛される/愛されない」に関わらず公平に接するべきだし、そもそも人との関わりが苦手な子や難しい子たちの背景を考えた上で関わるべきなのではないだろうか。
ダイバーシティや多様性という言葉をよく耳にする。
それは自分の認める範囲の人たちだけの多様性を認めるものではなく、自分の認めたくないと思う人たちも含めた多様性が共存する社会のはずだ。
それは福島さんの言う「仮に、性格が暗くて、ひねくれた、いやな障害者がいたとして、それでもその人が最低限、人間として生きていけるような懐の深い社会」のはずなのだ。